機能分析と真理探究−−関恒義『近代経済学の破産』ほか

 帰ってテレビを見たら、フジテレビに古田が出ていた。さんまのまんまから、虎ノ門へという通常のコースを基本にザッピング。井筒監督が、前回無理矢理見せられた華氏911を、ふざけとる、なんやあれと、吠えまくっていて、ワシは監督や、政治的になんやかんやというんやないんや、というような気合いを感じて、そこでテレ朝に集中。本日のこちぢばは、ディープブルー。911ボロカスなら、これは多少は誉めるだろうと思っていたら、多少どころの騒ぎじゃなかった。十年の中で一番(・∀・)イイ!!と大絶賛。「よく獲ったなぁ」の大安売り。見終わったあとの、魂が抜けたような井筒の顔に、ほぉ〜、と感心しました。
 昨日は、いろいろメイルでお話をし、考え込み、有意義な一日だったが、今日も公務の合間、いろいろ考えることができた。宮台真司ゼミプロディース『21世紀の現実(リアル)』終章に込められているメッセージについて、最初の章の執筆者である、辻泉さんは、「社会学は、真理の追究を止めて、機能分析の蓄積に転換せよ!」ということではないかとおっしゃられた。これはなかなかに興味深い。予期理論以前=真理の追究、制服少女以降=機能分析。前者をまたやって欲しい。そういう気持ちは、ゼミ出身者だけの気持ちではないと思う。まあでも、機能分析の蓄積はフィールドにかぎるわけでもないし、理論を蓄積して、成果が出たらそれこそすげぇなぁと思う。
 閑話休題。花野さんのペーパーを採りあげ、6に理解できてもいないし、そもそも理論なんかとっくの昔にやめちゃったというか、やめざるをえなかったというか、そもそも理論と言うより学説研究だけだった私ごときが、ぐちゃぐちゃ言ったことから言うと、機能分析=現象論、操作主義、真理の探究=本質論、絶対論ということになる。前者で徹底するか。後者に踏み込むか。一時はそれが問題だった。
 本質はこうや!!という議論は、サクサクいろんな分析を可能にするし、なかなかにポップだと思った。真摯なマルクス主義者の力強さは、サクサク軽やかだと思った。デモ行って、デートで資本論読んで、速攻結婚して、サクサク子どもつくって・・・。枕詞のようにブルジョワ的とか批判するのがいて、寮の部屋にレーニンの写真とか飾ってあって、その部屋に出入りする猫にウリヤノフとか名前つけていた奴とかも、いつも人民服みたいな同じ服装で、真面目だったけど、不思議なさわやかさがあった。逆に本質論否定者に粘着な椰子もけっこういた。実存的密着感みたいな真実追究しちゃう椰子とか。
 左翼のなかには、なかにはものすげぇ、毒電波な[daisensei]もいた。たとえば関恒儀。中山伊知郎門下の俊秀。経済学者というよりは、むしろ経済数学の篤実な研究者。ある時点で師匠と対立するマルクス主義者になったが、母校で教鞭を執った。経済学史などの本を読むとただ者じゃないというカンジはした。担当は社会主義経済と数学F。どちらも大人気だった。
 「日本はあと5年で社会主義になります」。そういって一年の講義ははじまる。「五年前も言ってたらしいな!」とかヤジが飛んでもお構いなし。話も面白かった。数学Fというのをとった。経済学における数学利用に関する批判が一応のテーマだったと思うけど、ほとんどが「近代経済学」(もはや死語?)の批判というか、罵倒ですた。そのテキストが、『近代経済学の破産』(青木書店)。学会エコノミスト、官庁エコノミスト、民間エコノミストなどにわけて、実名羅列あげまくりで、なで切りにして行く。これがまた痛快無比だった。すげぇ本ですよこれは。馬路時々読み返しますもん。っつーか、二回しか出ないのに優くれた。まあデフォルト優みたいだけど。
 母校愛の強い人で、繰り返し言ったのが、「○○年小宮隆太郎は、一橋の経済学おそるるにたらずと言った」という台詞。思いを込めて言い、表情タップリに悔しそうな顔をするんだよこれが。旧帝大ではマルクス系優位で、戦前と戦後の一時期、経済学をリードしていた時代を知る人には、万感の思いもあったろう。で、一橋の経済学、一橋の哲学、一橋の社会学を生み出さないといかんと再三強調した。うちの先生も、左右田哲学みたいな一橋の哲学をつくれなどと言われ、当惑していた。哲学は哲学ですよねなどと言っていた。母校愛も強いし、なにせ中山ゼミで何年に一人の秀才だったわけだから、これがまた就職がよかったらしい。国立の居酒屋で、よく飲んだくれていた。酒クセはともかく、なんかこういう逝ってしまった悲しい目をしている生き物には、共感を感じてしまった。ただ、現象と本質で思い出すのは、関先生の議論だし、そこから一定の啓発を受けて、カントとかを読んだのもたしかなんだよね。
 思い出すなぁ。本質と真理と法則性の時代。70年代。私が大学院入試を受けたとき、解答した二題の論述のうちの一つが哲学の問題で、「哲学史におけるアンチノミー問題の意義について」という問題だった。矛盾の合理性、発展、対立物への転化などの合理性、本質論、法則科学の定礎など、コアな本質論を盛り込んだ答案が要求されるものだったと思う。
 答案どんなこと書いたかなぁ。カント『純粋理性批判』は、「モノ自体」=真理を探求するとアンチノミーになると言って、本質論を回避した。まあ一応モノ自体はあるかもしれないけど、一応想定はしておいて、現象をサクサク分析できりゃイージャンみたいな。パーソンズもこの系列だっつー論文もあったよなぁ。さらにウンチクかませば、カントは実践理性の領域では、議論を回避しないし、一定の結論を出した。で、判断力批判の結論=わけわかめ。何度見てもすげぇ結論ダヨなぁ。ヘーゲルは、カントの三批判を下敷きにして、かつ矛盾を理性的原理にして論理学体系をつくった。謙虚にやめるか?雄々しくつきすすむか?ここが分かれ道。マルクス主義では、矛盾媒介的な発展の線上に社会主義共産主義が位置づけられるわけだし、そこへの必然=社会の法則性を現象論では見えない本質とした。そこの真理を認めないバークレーやヒューム、さらにはマッハみたいなのは、反革命的だし、はたしてレーニンがボコボコに言う。なぁ〜にが、esse est perpiciぢゃ!!、ってなもん。逆に機能主義は、本質もモノ自体もへったくれもないアナーキーin the UK だから、まったく逆の評価になる。
 サクサクアナーキーに機能分析積み上げようZE!!思いきって言えば、本質論はダメダメで否定されるというよりは、一つの場合として、位置づけられるということになるのかね。より一般化つったら、その一般性自体が、本質くさくねぇのかなあって疑問はたえずつきまとう。本質論サックサクも悪くはねぇじゃん。まあ、目が据わって、粛正とかはじめたら、シャレにならないけど。
 だけど、本質ではなく、「同一平面上」に可変的「原理」をおけるようになったというのが、最近の理論社会学のすごいところだと思っているというのが昨日言いたかったこと。つまり現象と本質、体系と原理・・・という議論を、−−こんなこと言っていいかわからないけど−−行列と固有値からはじまって、いろいろな着想を導入して、あーだうーだやっているみたいなこと。独自の理論が立つっていうのは、そういう意味での蓄積であるというか、そういうものにすぎないというか。
 「背伸びして いろいろ言うも わけわかめ」。とほほ。