丹頂鶴

 「もはや観光名所」と言われ、辛口なユーモア?が横溢している某毒電波サイトを久々に閲覧。なかなかにこおばしい応酬が始まるような、始まらないような、そんな雰囲気ではあるものの、そういう政治的な次元とはまたちがうところにある、言説の妙味というものにむしろ私は惹かれる。論争の勝敗は無意味である。花田清輝鶴見俊輔といった確信犯のアウトファイターは、ブルファイターと勝負しても、勝負という土俵自体がブルファイターのそれであるし、ディベートのコツは最終的には圧倒してしゃべり続けることだというし、いかなる種類のものであれ闘争心を堅持できるかどうかにかかっているとも言える。「政治は闘争心である」。元筋モノの浜田幸一はそう言っている。
 ポイゾナスなさいとで、なつかしいことばをみつけた。丹頂鶴である。日教組というものは、トップ=あたまだけが、「アカ」である。でもって、フェミも、丹頂鶴というわけだが、どうなのかなぁ。山下悦子の名前がとっさに浮かぶんだけど。この人、消えちゃったヨネってことは、せんだって、女を泣かせてみたいもてない男の本で読んだけど。トロとか、アカとか、なんか寿司屋みたいだよな、レイブリングの政治って。ただまあそれでも、電波にものが言えれば、それはそれで芸だし、興味深くはある。
 丹頂鶴っていうのは、もう一つの意味があって、同じ「アタマがアカ」というのでも、その個人がアタマが「アカ」って場合にも使われた。つまりいっぱしのアカ気取りで、いろいろほざいて、徹頭徹尾の主義者ぶっても、もうハビトゥスがお高くとまっているみたいなかんじ。それでも、アタマが「アカ」ならたいしたもんで、アタマも赤くなく、「口先だけアカ」というのもいて、それはジュウシマツと言った。
 「アカ」って、高学歴多いし、市民だなんだって言ったって、田舎の選挙なんかスゲーモンな。票読み完璧にできているって話だし。どっかの選挙区では選挙はトトカルチョになってるっつーし、早坂茂三「なんだかんだ言っても、選挙の時にさ、宣伝カーから金ばらまくとさ、みんな車にまとわりつくようにしてそれ受け取るからなぁ」とえぐい話。実弾=お金は即効性の麻薬みたいなもんで、とりのこされた民は、とりあえずそれにすがっちまう。それに対して、丹頂鶴が、「あーたたち、腐っている」なんて気取ってもの言っても、砂防会館チャーシュー麺アテにして、オールドパーをがぶ飲みしている角ちゃんにはかなわんだろっていうのが、早坂氏の言い分だろう。浜田幸一センセイも、苦労人の元国鉄機関誌金子満広氏には頑張って欲しいとかエール送っている。まあでも、そう言われたからといって、無理して庶民ぶってもしょーがねぇ。ハイソな国営放送のアナウンサーが、都知事に立候補して、風呂屋に行ったのを映させたのは笑ったけどね。毛深いの。深川あたりの頑固オヤジは、アタマまでつるつるで、どーしてこんなにちがうんだろうか。最近は、ジュウシマツの保守版としては、鳩ぽっぽというのもでてきたわけだけど、これはべたのなかのべたなネタ。
 ただまあ、大学や行政の現場で、女性運動なんかしている人と会ってきた経験からすると、ぜんぶ丹頂鶴ってこともなかったよ。ほんとうに職人芸で磨き上げられたような「アカ」もいたし、そういう人たちと知り合えたことは幸福だったと思っている。フェミも同様で、ホンモノだなぁって、感嘆したことは一度ならずである。もちろんイヤなやつにも会った。ガキの頃、下校間際にクラス全員が小学校の屋上につれていかれ、ネオンを見せられた。先生「あれをきれいだと思いますか」。私「きれいです。夜になるとわくわくします」。先生「あれはお金もうけのためのモノで薄汚いモノなんですよ。いいですねーみなさん」。私「きれいぢゃん!」。先生「君なぁ・・・」と怒ったのはいいけどさ、ガキ相手に胸ぐらつかんで「オマエみたいなのをニヒリストと言うんだ」とか絶叫すんなよな。すげートラウマだったよ。まあでも、信念もって本気でぶつかってくれたとも言えるんだけどね。「ネオンは汚いと千回いうまで帰さない」なんて言わなかったし。逆に言えば、こういう逸話で、「アカ」の攻撃をするのも愚劣だよね。ガキの純真な眼とか、別に信じられるものだと思わないし。イロやカネのどす黒さという、さしたる根拠のないモノが「地に足がついている」みたいにふんぞり返るのもたいして根拠はないわけだしね。
 「アカ」にしたって、そんな確信犯ばっかじゃないだろう。西部邁氏が言っていたことだけど、思い詰めていかに政治をやらなくちゃ行けないかを思索し、運動に入ってくるやつって意外にダメで、自治会室かなんかに「ちわーっす、運動やりたいんすけど。動機?なんとなくっすよ」みたいなほうが、大幹部になったりするらしい。私たちのころも、「デモ行けば恋人ができるぜ」みたいな言説は横行していたし、いつの時代もイケメン、シェーンメッチェン(いつのじだいかYO)なんかが、大衆運動を引っ張っていたのも事実だろう。とある活動家だった元同僚は「セクトなんて、最初にどこから声をかけられるかで決まっていただけ」と言っている。だいたいもともと運動なんか『青きドナウの乱痴気』みたいなもんだって、思想もへったくれもない逝ってよしな人々の命がけの戦い=乱痴気騒ぎを描いた良知力氏も言っていたし。頭が赤いかどうかもわかりゃしねぇ。ナベツネもアカだったわけだし。
 フェミをめぐるあれこれは、揺れ返しの時代に入って、「行き過ぎを正す」みたいな動きが出てきている。70年代のマルクス主義をなぜか思い出す。どっちとも言える。そしてそのどっちともが、いろいろ考えているうちに、いろんな「どっち」をうみだし、それぞれがいろいろ微妙なニュアンスやあやをもっている。そういうものを、きめ細かく見てゆくことの大事さを、ウェーバージンメルは科学しようとしたように思う。それを「ひとくくり」にしようとするところに、大衆社会の怖さがある。逆にどうしようもなく政治というのはそういうところがある。どんな馬鹿くせぇことにも萌えられる奴、電波や、苦労人や、田舎者は最強なのである。激高老人と議論したとある[daisensei]の嘆息「田舎者にはかなわねぇ・・・」。丹頂鶴は言い負かされ、小松のおやびんのように「みじめ、みじめ」と悲しく舞うしかないのである。でも、それでいいではないか。(fff)。