おまえ『解夏』をみたかとともだちにきかれることがある。視力を失う者の愛というさだまさしなウエットな情緒を、長崎という場所の風景として映像化・昇華し、かつ<そこ>に根づかせるという作為とでも言いたいのだろうか。まさか、前にやっていた掲示板をこまめにみていて、最近の磯村一路の作品にほとんど言及していることを、めざとくみつけてというわけでもないだろう。たしかに、『がんばっていきまっしょい』をみて、瀬戸内海に特別の思いをもつ者として名前を銘記したのはたしかだし、『船を降りたら彼女の島』はさらにディープ瀬戸内な島の風景を堪能した。大林宣彦のSF奇想天外みたいなことは一切なしで、ひとや暮らしを丁寧に描くことで、それを光景や風景につくりかえてゆき、情緒的なものにひらきなおるのではなく、作品化している芸は、本音大林劇萌え、さだやや萌え、ついでに言えば伊勢正三萌え、イルカ劇萌えな見地からは、少し物足りない部分はあるものの、撮りたいものを撮りたいように撮っていることともあわせ、有り体に言えば(・∀・)イイ!!と思うのであります。
『群青の夜の羽毛布』。最初ビデオ屋でみたとき若い椰子の作品かと思った。ジャケツがいいんですわこれが。で、手にとってみて、なーんだ『赤い帽子の女』と関係あんのかYOとか思いますたけど、一言の炸裂が脳天に突き刺さっている一作です。◆名前: い 投稿日: 2003/06/07(土) 16:49 本上まなみ主演『群青の夜の羽毛布』、ジャケツには群青の毛布にくるまれた本上まなみが写っていて、初主演でラブシーンに挑戦とかゆうことで、まあそれは借りますわな。天然か演技かワカランチンだけど、ホワーッとした存在感は、したり顔があまり見えないためか、癒されるという理由もよくわかり、イイカンジでありますわな。暗い群青の映像が淡々と進行する。話は単純といえば単純。家族に縛られ、がんじがらめになっている女性が、イイ子から「卒業」するお話ですな。演劇っぽいシーンを重ねて行くかんじがしましたが、それが手法かどうかはアテクシのような素人にはわかりませんわ。そのわりに全体にごつごつしていて、しかも美術作品や小説などモチーフになったものがにぎにぎしく見える気もして、なんとなく騒がしい気もしないことはありませぬ。しかし、その幾何学的な様式美、っつーか、図式的と揶揄するムキもあるんだろうけど、その構成のしかたはそこそこわかりやすいと思う。「卒業」は、「このクソババア」というせりふが炸裂することでとりあえず表現されている。その時の本上の表情は、極道の妻達の岩下志摩の啖呵とも、ぼくんちの観月ありさのまそこという啖呵とも違う、へなちょこな目つきなもので、それだけに一層トラウマな残像が残ります。また、なかほどで作品世界の「マトリックス」のヘソのようなものが、一つの欠落感として提示されている。それが「汚いぢゃない」というせりふ。いやあ、実に(・∀・)イイ!!。
しかし、『黄昏流星群』がこの監督の作品とは知りませんですた。私は「星のレストラン」という作品が、弘兼作品のなかでも一番好きなもののひとつで、っつっても、もう一つは『はりねずみ』ではなく『人間交差点』の「荘厳な残像」で、まあ要するに教養小説っぽいものが好きなんだろうね。なんだかんだ言って。◆い 投稿日: 2002/11/30(土) 03:16 昨日のTBS深夜帯、BSで放映されたハイビジョンドラマ「星のレストラン」みますた。ビデオじゃないけどまあイイジャンか。これは、『ヒューマンスクランブル』や『ハローはりねずみ』なんかの頃と比べて、いささかちょーしこいちゃったとしか言いようのない島こ〜さく弘兼が、団塊な老人の生をを描いて、もしかして自己模倣むふふ・・・な『黄昏流星群』のひとつで、たぶん私が読んだなかでは、けっこうおもぴろかったものなんです。高給レストランに勤めるあんちゃんと、図書館に勤めるねぇちゃんが、コンビニで一人暮らしの小汚いぢぢいと会うところから物語は始まる。コンビニの勘定わすれちゃったぢぢいに、ねぇちゃんが金を貸す。おまけに自分のマンションに連れて行って、あんちゃんがつくったメシまで喰わせてやる。あんちゃん「どうでぇ、一流レストラン勤めのボクの作ったメシは美味いだろう」つーかんじでエッヘンすると、涙流してありがと〜ごぜ〜やすと言うはずのぢぢいが、料理に文句つける。これがまたいちいち的確で、あんちゃんはぶち切れる。しかし、このあんちゃんは料理に愛情を持っていて、フランスで勉強したいという純粋な情熱の持ち主で、このぢぢいにくいついてゆく。わっけわからんちんだったのが、ねぇちゃんが図書館でこのぢぢいの正体を見つける。実はふらんすの料理界でブイブイいわし、世界一のシェフも影響を受けたと絶賛する名シェフだっつ〜絵に描いたようなお話。ぢぢいは、身の上話をする。修行の辛さ。名シェフとの切磋琢磨。寝る間を惜しんで料理について語り合った日々。そしてきれいなねぇちゃんとの恋。あ〜あ、もう鮮やかなくらい体言止めが似合うようなお話。しかし、☆☆までいって、ようやくこれからという時に、店で食中毒が起こり、二人を死なせたことに自罰的になったぢぢいは、恋人も、料理も捨てて、日本に帰る。そして一切料理をつくっていないという設定。とうぜんあんちゃんは、「弟子にしてくだせぇ」って土下座する。そして弟子入りしたあんちゃんは、ぢぢいの料理を食って、純粋な情熱を炸裂させ、「なんでこんな味が出せるんだ」と嗚咽する。もうすぐ五十になってしまうワシなんかも、こういう純粋な情熱にはけっこうぐっとくるものがあった。あとはねぇちゃんが、分かれたふらんすじんのねぇちゃんを、フランス出張中にみつけてきて、ぢぢいばばあになった二人はステキな再開をする。でもって、あんちゃんとねぇちゃんはフランスに旅発つ。ちゃんちゃん。まあ筋立て自体は、いかにも漫画っぽい構図をもっているわけだけど、ハイビジョン放送を想像しながら見ると、画像のしっとりした落ち着きに、なかなか癒されるものがある。しかし、なんと言ってもこのドラマの白眉は、主演の石橋レンジ。私のようなゲージツ音痴にも、容易にわかる存在感はいうまでもないけど、このドラマでは上手いなぁと思った。あくまでもアテクシの思うことだから、たいした話ではないんだけどね。もちろん、ドアップの苦悶の表情とかがいいというんじゃないっすよ。この人の立つ姿。座る姿。自転車に乗る姿。そのすべてがものすごいいい加減で、ひきつけられますた。ボロボロのぢぢい。青年を前に最後の情熱を青白く燃やすぢぢい。そして、それなりの円熟な老境を迎えるぢぢい。そのすべてを、さっくりと表現して、提示して見せている。無知な私がう〜〜〜んと陳腐に分析すると、なんつーか、身体の魔術ですな。あんな後ろ姿できる俳優他にいるんだろうか。実に(・∀・)イイ!!。ハイビジョンドラマとしてどうかは、ハイビジョンでないアテクシにはわからんちんです。まあそのへんの作品性はど〜でもいいっすよね。二度と再放送しないだろうけど、ビデオ出たらもう一度みてみたいなぁ。テレビって面白い媒体だよねぇ。
『雨鱒の川−−初恋のある場所』というのを秋にやるらしい。ハイビジョンの作品を除けば、主題はみんないっしょにも思えるけど、問題は新作でローカルの固有名が欠落しているかどうかなんだけどね。上京、棄郷、帰郷といった、不純な意味を求めて、私はこれを見るだろう。ひらきなおるわけじゃないけど、映画のギョーカイ事情だとか、学問事情だとか、んなものはどーでもいいわけ。映画館にもあまり行けないし、ビデオでしかみれないし、ろくに情報もないし、といった場所からみることで、作品世界の普遍性とどのように響きあうかが問題なんだから。なんてイチビルと、たいてい「映画を『ほんとうに』わかってない」とかゆわれる。そこで展開される「ほんとう言説」に耳をかたむけると、なにかが見えてくる気がすることがある。さて、転記が終わったら、いよいよ採点終了。早く帰って『解夏』をみましょうかねぇ。