サブカルチャーとしての女子大

研究室で夜仕事をしていたら、ゼミの学生から電話があり、今新宿で合コンをやっているのだけど、相手の人たちが「見たい」というから出てこないかというお誘いを受けた。オレは珍獣じゃねぇぞと思ったが、最近の合コンってどんなものか見てみたかったし、まぁ幇間もわるくねぇかと出かけることにした。「紳士的な好青年」たちばかりで、大学や高校の後輩も何人かいて、話も弾み、楽しかった。

しかし、「女子大生の扱われ方」をまのあたりにし、また帰りの道すがら「野郎ども」の愚痴を聞き、その顔にたばこの煙を吹きかけて先に帰ったというゼミの精鋭に、心のなかで「よくやった」と叫んだ。後日、オレってフェミだよねと自慢したら、父権的保護者意識じゃないのと、一本とられてしまった。

それでも、彼らは「かなりいい人」らしい。最悪の極端では、即日H、すなわち「やりコン」を拒否され、ふてくされてかえろうとした「サイテーの奴ら」さえいるという。文句をつけたら、「勘定はまかせるよ。ボクたちT大のI学部なんだから、いっしょにコンパできただけでも幸せだと思わない」と言われたという話は伝説になっている。

コンパだけではない。あるサークルの勧誘ビラに、「カオセレ」とあった。ゼミ生に聞くと、女子部員を顔でセレクションすることだと教えてくれた。このように「大学生文化というサブカルチャー」は、けっしてバリアフリーなものではない。「女子大文化」という「大学生文化のサブカルチャー」、つまり「サブカルチャーサブカルチャー」は、いろいろなバリアを照らし出す(拙著『サブカルチャー社会学世界思想社参照)。

『大学図鑑』(ダイヤモンド社)は、男社会というバリアを知るためには共学がいいと言っている。しかし、女子大だからこそ見えるバリアも多い。そして、「女子大というサブカルチャー」には、そうしたバリアを飼い慣らす知性を育んで来た経験や伝統がある。それだけではない。ゼミや大学祭の運営するのも女性だけ。アルバイトや就職の求人も女性向け。語学、職業教育など、大学伝統のセールスポイントが明確。女子大でなければ得られないものも少なくない。いっそ、「社会の女子大化」を考えてみてはどうだろう。なかなか「女子大的なもの」も「まったり」(宮台真司)していていいですよ。
(某新聞に大幅書き換えて掲載された。チャラすぎるんですと。そっかなぁ〜??)。