「価値意識の変容と欲望――若者文化をめぐって」(下)

 原稿をいまさら貼り出したのは柔道の世界選手権をみるためだろう?といぢわるなことをいう人がいる。そうだよ。ほかに何があるというのだ。集中講義して、旧交を温め、カツネットカフェで仕事して、その上世界選手権をみることができるほどには器用ではないのだよ。私は。昨日の金、銀、銀、銅は、五輪に比べればだいぶ劣るとは言えるのだけれども、全員メダルなんだから、かなりすごいとも言えると思う。だって前は一日一人くらいはメダルのとれない人もいたわけだから。今日も早く帰ってみたいと思っている。さて、ぺたぺた貼ります。この論文はこれで終わり。最後のブラウニーは余計だったかも。昨日も言ったが、一年ほど前に『神奈川大学評論』に掲載された文章である。


「価値意識の変容と欲望――若者文化をめぐって」(承前)

「総動員の文化装置」から「選別動員の文化装置」へ

 考察のために、他所(伊奈[2004])で述べた例をくり返すことをお許し願いたい。高度成長期には、「追いつき型」の近代化が国家の目標として掲げられた。そして、国民動員の要に教育が位置づけられた。池田勇人は、所得倍増の要点として「人づくりによる国づくり」を掲げた。「欧米なみ」の教育水準の達成という「追いつき型」の目標が掲げられ、所得水準が上昇するとともに進学熱が高まった。一九六二年には、「教育ママ」が流行語になっている。高度成長でそこそこの金を手にした学歴のない親の怨念と期待を背負った子どもたちは、「受験戦争」を戦った。野口悠紀雄『一九四〇年体制』(東洋経済)も言うように、軍事から経済に変わりはしたが、国民総動員の体制は温存・強化されたと言えるだろう。この体制の文化装置は、「総動員の文化装置」と呼ぶことができよう。
 こぎれいな衣食住の都市的生活という夢を実現する終身雇用・年功賃金の「給料とり」になるように国民は動員された。そして、家庭電化製品の普及、食生活の向上、消費文化の形成などの日進月歩の手応えは、全国民が享受できる「一〇〇%の立身出世」を実感させた。テレビ文化は、欲望や幸福のかたちを供給し続けた。そして、多くの国民は「手の届く欲望」を原動力に、こうした「ささやかな立身出世」をめざして、まじめに頑張った。
 ビートたけしの自伝的な作品『たけしくん、ハイ』や『菊次郎とさき』には、戦後日本における一つの典型的な幸福と欲望が描かれている。たけしの父親は塗装職人で、ろくに学校も出ておらず、読み書きもできなかった。元漆塗り職人で、腕自慢の職人肌、勤勉な働き者、でも商売はからっきしで、それらは一切合切女房まかせ、きまった飲み屋で一杯ひっかけてかえることだけが唯一の楽しみという人だった。たけしの母親は、家事、育児の他に、見積もり、経理をこなし、そして、猛烈な「教育ママ」だった。口癖は「勉強しないと父ちゃんみたいになっちゃうよ」。末っ子のたけしに父親は跡継ぎというせつない夢をもったりもするが、ままならない現実に酒を飲み、暴れた。そんな父親も飲み屋で子どもの成績や進学を自慢したりもする。そして、子どもたちも、父親のさみしさや母親の執念をやさしく受けとめながら、一流大学、一流企業をめざした。ここには、職人性、篤実、人の情け、家族や下町のつながりといったものの運命が、淡々と描かれている。
 さて、高度成長期の終焉とともに、日本人は「追いつき型」の近代化という目標を喪失した。しかし、喪失は「追いついた」という自負として実感された。バブル期には、ジャパンマネーが世界を席巻し、世界史の焦点が日本に移動するのではという予感すら生まれた。ここで注目すべきなのは、ポスト高度成長の時代は、米英の新自由主義の影響もあり、競争を重視する考え方が徹底して語られた時代であったことである。バブル期には、勝ち組と負け組、「マル金(きん)」と「マル貧(び)」という差別化が流行語になった。
 ささやかな「一〇〇%の立身出世」という目標は、お祭り騒ぎのなかで、確実に色あせた。教育における「一〇〇%の全面発達」という高邁な理想もなし崩しになり、ひとつ間違えると、入試科目数の多い「上位校」を頂点とした選別に資する言説になることも明らかになった。そして、バブル崩壊に至り、苛烈な競争社会が露わになった。グローバル化行政改革規制緩和、自助努力などの言葉で、「一九四〇年体制」の見直しが叫ばれた。そして、「選別動員の文化装置」が突然顕現する。人々は場当たり的に慌てふためいた。

ア・ルースボーイと仕事

 要するに、問題は、競争から否応なくこぼれる部分が、−−個性や能力に応じた選択肢がしめされ、きめ細かく人材配分されることなく−−乱暴に落ちこぼされてしまうことである。バブル後に残されたのは、強者選別の競争原理と、こぼれた者たちの、文字通りの意味での「やり場のない」衝動や不安であった。おまけに日本の社会は、アメリカをはじめとする競争原理の国々と異なり、やり直しという希望をもちにくい。しかし、「選別動員の文化装置」と「総動員の文化装置」の奇妙な融和によって切り捨てられている場所に、新しい価値意識が、踏みにじられながらも、勁く芽吹いているように思うこともある。
 東京の街にはライブハウスやスタジオなどが多く、バンドの若者が大勢いる。そういう若者は、コンビニなどでアルバイトをしている。筆者がよく行くコンビニには、まんまでステージに立てるような、金髪の頭をおったてた若者や、腕や胸元から全身タトゥーがみえるような若者が働いている。接客は丁寧で、食べ物や石けん類などは別の袋にしてくれるし、ぬれやすいものはビニールに包み、重いものから順番に入れ、パンなどがつぶれないようにしてくれる。待ち客を上手く誘導して、混まないように配慮している。順番待ちの買い物かごを見て、量をチェックし、適当な袋を用意している。そして、最後に袋のとってをくるくると巻いて、荷物がこぼれないようにしている。快適なパフォーマンスだ。
 居酒屋やファミレス、建物の清掃や工事現場など、いろいろなところで同様の仕事ぶりをする若者に出会った。そして、そのたびに佐伯一麦の小説『ア・ルースボーイ』を思い出した。ア・ルースということばには、「しまりのない」という意味と、「解き放たれた」意味が含まれている。エリートコースからドロップアウトした主人公は、いろいろなしがらみから自立してゆく。新聞配達のアルバイトや電気工という仕事のつらさや喜びが丁寧に描かれる。新聞配達という仕事を一つとっても、一軒一軒の住民を熟知すれば、新聞を入れる場所、高さなども違ってくる。工夫を凝らし、住民の顔を一人一人思い浮かべながら、新聞を配る主人公の充実は、その気負いのようなものまで含めて、清冽である。
 「あの四角いのが空調ダクトだろう、太いパイプが、水道の揚水管。こっちのが、排水管、それからあれが火災報知器の空気管、それとガス管」という電気工の親方がする仕事の説明に目を輝かせるア・ルースボーイの誇りは、ヴェブレンのいう「製作本能」(workmanship)や「職人性」(craftsmanship)と通底するものがあると思う。資本主義の根幹には、欲望が欲望を呼ぶ自己増殖炉のようなフェティッシュなメカニズムがあり、容赦なく徹底されることは、マルクス、デュルケム、マルクーゼ等により指摘されてきた。同様にヴェブレンも、欲望の暴走と世界の破局−−二九年大恐慌や世界戦争−−を予言した。それに対処するものとしてヴェブレンが提出したのが、「製作本能」、「職人性」という理念であった。

ア・ルースライフとフリーター是非論の失効

 小説のラストは、卒業式をやっている天井裏で、主人公が電気工の仕事をするシーンである。彼は、同級生の卒業にあたたかなまなざしをそそぐ。友の進路を否定するわけではない。彼が反発したのは、安易に平均化された総動員体制だ。彼は寛容に赦す。そして、電気工は、やがて私小説の作家になった。
 彼のア・ルースライフは、いろいろな可能性を示しているように思われる。受験勉強に疲れたら、肉体労働をしてみるのもよい。あるときはフリーター、あるときは正社員という、可変的なキャリア・生活もありうるし、アルバイトでお金を稼ぎつつ、音楽、アート、スポーツ、文学を楽しむ複線的なキャリア・生活だって考えられる。しかし、フレックスキャリア、フレックスライフは、修練、創意工夫、我慢、努力に支えられた積極的自由=「〜への自由」よりはじめて可能になるのだと思う。資源的価値を持つものとして根拠づけられなければ、ア・ルースライフは緊急避難的な意味しかもたないだろう。
 『週刊SPA』(二〇〇四年五月二五日号)は、「二〇〜三〇代フリーター[負け組/勝ち組]の境界線」という特集を組み、「年収一〇〇〇万円組を含む一握りの『勝者』と借金三〇〇万円で自己破産など大多数の『敗者』を分けた事情」をとりあげている。この記事は、「大卒就職率五五%の時代」、「フリーターの総数は四二〇万人を突破」している現状を見すえ、「フリーターの是非」という問いが失効していることを洞察している。その上で、−−慈善、援助、福祉といった論理を排し−−フリーターの可能性=資源的価値を収入というシビアなものさしで検証している点で興味深い。しかし、この記事は、ハイリスクハイリターンな契約年俸制エリートといった昨今流行の動員論理に、「勝ち組さん、いらっしゃい」と勝ち組フリーターを接続する言説、選別動員の徹底に資する言説ともとれる。「おいおいフリーターまで二分するのか」という嘆息が、聞こえてきそうである。
 こんな現状において、「落ちこぼれる才能」(大村英昭)とまでは言わないが、緊急避難のそれなりにやむを得ぬ事情もわからないではない。「よかった時代」の枠組み(「総動員の文化装置」)では、よーいドンで競争を始め、こぼれてもそれなりの充足はあった。今、その枠組みには経済的な根拠がなくなった。分け前は減り、競争は純化・激化する。勝ち組は少数精鋭化する。なのに昔の枠組みが引きずられていて、努力目標は画一的だ。うすうす感じているのに否定はされず、生殺しのように手応えのない古くさい励ましが続き、「世界に一つだけの花」(SMAP槇原敬之)は踏みにじられる。そしてポップな渇望がはじける。−−「寝坊しちゃった まいっか 今日は一日仕事休んどこ/久々のいい天気だし なんて言ってたら夜になる/そのまま眠りこんで不思議な夢で目が覚める/ぷるぷるでぶつぶつした何かに僕は襲われる/それがPOP かなりマズいPOP 終わらないPOP 気味の悪いPOP 聞こえてる/・・・そう僕はね サイレンの音聞きたくて街に炎を放つ子供みたいに 誰かに愛されたくてタマラナイ」(B for BROWNIE #1)。

文献(再掲):

伊奈正人 二〇〇四 「子どもの反抗はどう変わったか」『児童心理』四月号
Mills.C.W,1959a,“Cultural Apparatus”The Listener,vol.LXI. no.1965
→ 1963,Horowitz.I.L.ed.,Power Politics and People,Oxford
Univ.Press =一九七一 佐野勝隆訳「文化装置」『権力・政治・民衆』みすず書房
奥村隆 一九九七 「文化装置論に何ができるか」奥村編『社会学に何ができるか』
八千代出版
太田省一 二〇〇二 『社会は笑う』青弓社
Veblen.T., 1914, The Instinct of Workmanship and the State of Industrial
Arts
, Macmillan =一九九七 松尾博訳『ヴェブレン 経済的文明論』
ミネルヴァ書房