jibunsagashi2

 痛ましいことになった。香田証生さんが殺害されていた。家族にとっては、拷問のような苦しみの後の訃報だったであろう。言葉もない。掲示板他を一通り巡回してみたが、さすがに3度目の正直などを茶化す書き込みは目にしなかった。それはいいのだが、「匿名の死」ということばが、目について気になった。匿名のまま死んでゆくことを忌避する。運命に身を任せるのではなく、唯一の絶対を行使する。そういう誘惑に脳内麻薬が炸裂しているとすれば、それはちょっとなぁ・・・と思う。しかし、物語はいろいろつくられてゆくだろう。「これって新しくない?」って氏んだ、7人ネット自殺は記憶に新しい。「高島平」、「富士の樹海」、「中央線」、そのあとは「イラク」なんてことも語りはじめられているみたいだ。移動の自由とのからみで、政府の対応も困難を極めるのだとは思うが、留意されてしかるべきことだと思う。
 学生時代に学会にいった行きだか、帰りだか、忘れてしまったけれど、佐藤毅ゼミの一行と布施鉄治氏が新幹線の食堂車で鉢合わせして、ひとしきりテーブルを囲んで、歓談したことが一度だけある。布施氏は、かなりの酩酊状態であったが、神経症でガクガク震えている私に一瞥をくれて、「君たちさぁ。学問の創造なんてさ、人間という生き物にとって、どーでもいいことなんだよ。やっぱ、ガキをつくって育てることだけが唯一の真実なんだ」。そんな主旨のことを、もう少し上品におっしゃった。もう四半世紀近く前のことだし、子供をつくらない人はどーのこーのというツッコミはここではあげあしとりであって、いいたいことの真意はわかるだろう。つまり過剰に意味や完全を求めるなということ。元やくざ者の安部譲二は「父母はバリバリの庶民だけど、悄然と死んでいった。くだらない意味やなにやらをもとめるのは文化人だけ。文化人の類ほど品がない」と喝破した。私の友人の1人は、子どもの病気があり、研究者を断念して、大学院をやめて、働いて、子どもを育てた。・・・そんな方向に思考を進める自分がいる。
 寺山修司風にいえば、「意味を捨てよ、ガキをつくろう」ッテか?アーヒャヒャヒャヒャとあいもかわらずWDTな規律訓練の呪縛から逃れられません。まあだけど、自分探しって言えば、ガキを育てるのも自分探しだろ。飲み屋で「おまえさ、ガキの笑顔をみるとたまらないぞ。イキルユウキがわいてくる」って、ちょっと下品な色気がある、派手ながらの開襟シャツと、パンチちょびひげのおやぢに言われたとき、そう思ったよ。他方で、ピラミッドだって、万里の長城だって、希有壮大な自分探しだろ。しかも、たくさん道連れにしてさ。政治的、経済的、軍事的な自分探しを、おこがましくも國の名において、やっている人もいる。エライさんは、やはり歴史に名前を残したいらしいし。私もいまだに自分がみつからねぇよ。だからブログ書いてるんだよ。
 拉致された香田さんの澄んだ目は、一生トラウマな残像となって残ると思う。危険きわまりないバクダットの街で、なすびと猿岩石を足して二でわったような日本のへなちょこなあんちゃんが、半ズボンで歩き回り、拉致されてヌッコロされたことと、橋田のおっちゃんがコロされたことと、奥大使たちがコロされたことの間になんらかの線引きを行いたい人たちの論理を見つめ、情緒的な気分にならないようにしたいと思った。語り尽くした議論を蒸し返し、繰り返し語り論争することには関心ない。過労などで、救出関係者の方が健康を損なったりすることがないように祈りたい。