略歴

1956年横浜の下町、野毛の生まれ。祖父は左官の職人。父は元左官の警察官。敗戦直後闇市の街としても知られた野毛は、商人、肉体労働者、ばくち打ち、テキ屋、女給、売春婦、ストリッパー、男娼、外国人などが集まるハイブリッドな街であった。付近の出身者としては、講談の一竜斎貞鳳、落語家の桂歌丸、江戸文化研究者の田中優子、俳優のキャッシー中島、サザンオールスターズ原由子などがいる。桂以外は小学校の同窓である。原由子と私は同期だったらしいのだが、記憶はない。

小学校時代は(も?)、いたずらで廊下に立たされてばかりいたので、ポストというあだ名だった。そんなこともあり、横浜で最も躾が厳しいという噂だったキリスト教系の私立中学へ収容され、その男子校で中高6年を過ごした。女子校が集中していることで知られる石川町の駅が近くにあったので、学業に集中するのは過酷な修行とも言うべきものであった。中高の先輩である小田和正もその懊悩を歌にしてアルバムに入れている。その修行に耐え、石原慎太郎を生んだ商業大学に奇跡的に受かった。高校に報告に行ったら、「ウソ言うんじゃねぇよ」とボロカスに言われた。以来、大学院進学時、就職時にも神風が吹き、一発勝負に鬼強であることを、実証してきた。

大学では寮に入り、多くの地方出身の友人を得た。これが、地方文化との出会いで、以来上京や地方という問題を考え続けてきた。はじめての合コンで鼻血を出したり、酔っぱらって近隣にある女子大の寮に集団で突撃したりするなど、一級下の田中康夫長野県知事のクリスタルな生活とはほど遠い、しかしそれはそれで楽しい学生生活が始まった。遊びすぎて結局1年留年した。

社会心理学をやりたかったのに、南博氏が定年でゼミを持たず、後任の先生は次の年からで、哲学のゼミでヘーゲルマルクスを勉強したが、やっぱり社会心理学がすてきれず、院入試の面接で「転向」宣言した。恩師となる佐藤毅氏とは、面接で初対面というむちゃくちゃさだった。以来、世の中気合いでどうにでもなるもんだと思いこんでいる。

そして、大学院に進学、そこでさらに5年と合計10年も学生をやった。大学院時代は思い悩むことも多く、クズ同然の生活を送った。ほとんど潰れかかっていたところを、1985年やっと論文二本執筆したら、突然神風が吹き奇跡的に就職内定。拾ってくれたのは初期マルクス研究で成果をあげたあと、階級階層の調査研究をしていた藤森俊輔氏である。履歴書にヒゲ付きの写真を貼って出したり、いろいろご迷惑をかけただけではなく、業績もごくわずかだったのに、先物買いと笑って採用してくださった。精神状態の悪かった私は、あのままだったら生きていたかなと思う。まさに天恵であった。

就職先は、吉永検事総長、小長通産次官、野獣系カメラマンありかわなどを生んだ岡山大学(ありかわ氏は私の二年ゼミ受講者だった)。そこで、学部二年以来行ってきたミルズ研究を1991年『ミルズ大衆論の方法とスタイル』(勁草書房)にまとめた。岡山時代は学生や同僚たちと、よく遊び、よく学んだと思う。十一時過ぎまで研究室で勉強したあと、飲みに行ったり、カラオケに行ったりというぐあい。ともかく、楽しい十一年間を過ごす。そうしたドタバタ騒ぎは『若者文化のフィールドワーク』(勁草書房)にまとめた。また『性というつくりごと』は、当時の同僚鮎京正訓氏たちの行った講義の記録である(鮎京氏は現名古屋大学法学部教授)。また、岡山でのサブカルチャー観察は『サブカルチャー社会学』(世界思想社)にまとめた。岡山で沢山友人を得た。そして11年間地方都市の生活をし、上京と在郷という研究テーマを明確に主題化した。ほんとうに楽しかったのだが、高齢化した両親の問題も考え、六年前東京にUターンした。女子大勤務も15年を超えた。