奥村隆『反コミュニケーション』(弘文堂)

思うところあり、いただいた本の感想を書くことを再開します。本が欲しいからではありません。くださらなくても行っていただければ買います。
奥村隆さんから、新著『反コミュニケーション』たまわりました。お世話になるばかりで、申し訳なく存じます。本当にありがとうございました。『社会学に何ができるか』(八千代出版)冒頭の「ごつごつした世界」「なめらかな世界」をめぐるコクのある論述、そのあとのデュルケム儀式論と照らし合わせたゴフマン読解、とりわけ「ちがうからまとまる」論などは、概論講義をするたびに言及してきました。『コミュニケーション社会学』(有斐閣)前半の諸章は、ゼミで毎年とりあげてきました。とりわけ、独創的な『アサイラム』読解は何度も反芻してきました。ただ、前半の諸章だけしか読まないこともあり、次はどうしようかなと思っていたときに、この著作を手にしました。アマゾンの紹介をはっておきます。

反コミュニケーション (現代社会学ライブラリー 11)

反コミュニケーション (現代社会学ライブラリー 11)

「よくわかりあう」コミュニケーションは、楽しいだろうか?
時空を超えて思想界の大スターを歴訪する、架空訪問記

【「序 イントロダクション」より】

私はコミュニケーションが嫌いだ。できれば人と会いたくない。ひとりでいたい。電話もメールもしたくない。たとえば電子メールというものがあって、これを仕事上使わなくてはいけない。苦痛だ。いきなり誰かからメールが来て、それに返事をしなければならない。返事をしないこともあるが、返事をしないとなぜか気持ちが重くなってしまう。いやだいやだと思いながら、返事をする。いや、必要に迫られて、自分のほうからいきなりメールを送るときも多い。相手は私と同じようにメールを送られて苦痛だと思っているのだろうな、と思いながら。

●目次

序章 イントロダクション
第1章 浸透としてのコミュニケーション――ルソー
第2章 遊戯としてのコミュニケーション――ジンメル
第3章 対話とディスコミュニケーション――ハーバーマス鶴見俊輔
第4章 他者、承認、まなざし――レインとサルトル
第5章 葛藤、身体、ダブル・バインド――レインとベイトソン
第6章 インターミッション――ジラール
第7章 演技としてのコミュニケーション――ゴフマン(1)
第8章 儀礼としてのコミュニケーション――ゴフマン(2)
第9章 接続としてのコミュニケーション――ルーマン
第10章 パラドックスとしてのコミュニケーション――ベイトソンと吉田文五郎
第11章 純粋なコミュニケーション――ギデンズ
終章 反コミュニケーション
あとがき
http://p.tl/8poT

浅野さんの河出ブックス『「若者」とは誰か: アイデンティティの30年』を中心に、『コミュニケーション社会学』(有斐閣)の前半、あとはミルズの動機の語彙、マートンの行為の意図せざる結果、ゴフマンの役割距離などを読んでいくかな、などと思っていたのですが、この構成をみて、再検討するかな、と思い始めています。つまり、有斐閣のやつの前半読んで、補充しようかと思っていたいろいろが、一冊にまとめられていて、かつ充実しているかんじだからです。構成を見ただけでも、読むのが楽しみになってきます。奥村さんの論は、すっ飛ばしたところがなく、丁寧に論を追ってゆくので、理論が苦手な学生にもよく理解できるように思います。
おりしも、『心の闇と動機の語彙』(青弓社)も本日買ったところです。どうやって読み進めてゆくことにしましょうか。卒論を控えた学生たちは、四月までに読んでおいてほしいところです。
夭逝された社会学者T氏のご葬儀の帰路、若手の俊秀が集まっていた梁山泊のような千葉大で、さまざまな教育談義が行われた話をしてくださったことを思い出します。読めても読めなくても、古典を1回一冊、報告させる講義は、厳しいが学生の力は凄く伸びたらしいです。そして、女子大でもゼミを持ったけど、同じようにできると思うんですけど、とぼそっと言われたことを時々思い出します。
おそらくそこで読んだであろう、マルクスウェーバー、デュルケムなどについては、今回は一切盛り込まれていません。次をついつい期待してしまいます。