佐藤健二『ケータイ化する日本語』

 佐藤健二先生より『ケータイ化する日本語』をいただいた。なんともことばがないくらい恐縮している。もちろん、本をいただいたくらいでヤニ下がらず、学会などでお見かけした際には、ひっそりと目立たぬように身を隠す、というような覚悟に変わりはない。たとえ誤解を受けても、私はそうしてきた。本当にありがとうございました。

ケータイ化する日本語―モバイル時代の“感じる

ケータイ化する日本語―モバイル時代の“感じる"“伝える"“考える"

内容

 個人と個人を、いつでも直接つなげることができるケータイ。その爆発的な普及の中で、「ことばの力」が衰弱し、「他者との関係」が薄らいでいる――。電話の登場から現在まで、通話機器の発達はわれわれの言語空間をどう変えたか。「声」の獲得以後の人類史をふまえ、「社会」を担う次世代に説く「ことば」の歴史社会学

目次

はじめに
1 ことばは「身体」である
2 ことばは「社会」である
3 ことばは「空間」である
4 ことばは「歴史」である
5 メディアとしての「ケータイ」
6 「二次的な声」と分裂する空間
7 空間共有の成功と失敗:テレビ電話の示唆
8 留守番電話と間違い電話:浮遊する声
9 他者の存在の厚み:あるいは第三者の位置
10 呼び出し電話の消滅と電話の家庭化
11 移動する電話:あるいは電話の個人自由
12 面で触れあう/線でつながる:他者関係の変容
13 ケータイメールの優越:「文字」の距離を選ぶ
14 ケータイで書く:「文字の文化」からの断絶
15 ケータイ化する日本語:ふたたび「身体」としてのことばに
  引用・参考文献
  あとがき


●人間は「空気」の海に浮かんでいる魚である
●ことばは、もうひとつの手であり、もうひとつの脳であり、もうひとつの皮膚である
●「留守番電話」はなぜ話しづらいのか、「間違い電話」はなぜ腹立たしいのか
●同席者が「ケータイ」で話しはじめたとき、なぜ居心地が悪いのか
●電話の置き場所は、なぜ玄関から居間へ、そして個室へと変わったのか
●いま他者への想像力が変化している
●「ケータイ」の前に「ウォークマン」があった──街にあふれだす個室環境
●ケータイは、既知の親密にひとを閉じ込め、会えない時間が育てる関係を見失わせる
●「線」の電話空間と「面」の現実空間──バーチャルとリアルの二分法を超える
●「言い尽くせない」「書き切れない」ものと向かい合う

この本のキーワード:

社会学、空間、携帯、電話、スマホスマートフォン、ことば、メディア、コミュニケーション、メール
http://plaza.taishukan.co.jp/shop/Product/Detail/30604

 本書の最後に『メディアとしての電話』の三人の著者への献辞が記されているのもよくわかる。とある学会の時に長谷正人氏が、だいぶ年月はたってしまったがこれをテキストにしている、と言っておられたことなども思い出す。たしかに、同書は、近代社会の存立を明視するものとして、他の追従を許さないように思う。
 著者自ら書いているように、ちょっと意外感がある著作なのだが、上記献辞に加え、『読書空間の近代』に照らしてみると、執筆意図は明確に見えてくるように思う。実際、本書の最後には『読書空間の近代』の要約が書かれている。これだけでも一見の価値はあるだろう。コンパクトな本ではあるが、一方で、社会の存立、他方で、社会学の方法、とりわけ歴史社会学という方法をわしづかみにするような力動を感じた。最近何を読んでも力が湧いてこず、ウツになってないか、などと思っていたのだが、本書のあとがきは、私には非常に刺激的だった。

 私がこの本で論じたかったのは、「社会」という公共性を立ち上げる力の復活である。われわれの身体技術であり、集団文化である「ことば」を話し、聞き、書き、読む実践そのものにおいて、その力の原点を考えることが必要だと思った。
 社会という関係性を公共に開かれた空間として立ち上げる。
 われわれは、そうした想像力を知らず知らずのうちに衰弱させてきたのではないか。
 その変容は、身の回りの身近なできごとのなかで進んでいる。たしかに現代社会の様々な局面で、「個」の自由なあふれ出しが観察される。それは「私」への密かな撤退や引きこもりでもあるが、一面では、他者とのつながりや共鳴をひどく切望しているようにも見える。
 にもかかわらず、空間の「公共」性をつくり出そうとする何かが、決定的に不足しているように感じられてしまうのは、なぜか。
(「あとがき」より)

 佐藤健二(以下敬称略)は、若い頃より得体の知れないスケールの大きさを感じる社会学者だった。私は環境問題の研究会にいて、ノリ養殖漁民の調査に加わり、民衆思想史や民俗学などをかじり、水俣病の座り込みをやっていた友人や、成田の空港問題ととり組んでいた友人たちと話し、でもやっぱそれなら自分は下町だよね、などと前田愛の都市論とかをかじり、試食だけで終わってしまった。大学院に潜り込むためにでっち上げたミルズ研究も、今考えると他のやりようはいくらでもあったのに、でっち上げた劣等感から、情熱があまり湧かず、ぶっ潰れかけていた。佐藤健二の書いたものをはじめて読んだのはそんなときだった。で、岡山に就職後、『ニセ学生マニュアル』における浅羽通明の佐藤評を読んで、なるほどと思った。
 今回の著作には、その浅羽から、荻上チキまで含めた多くの著作が参照されている。そして、さまざまなことばが例解され、考察がすすめられている。最後には、「名詞への従属」などという論点も出されていて、刺激的である。しかし、そっちのほうの議論にいってしまわない。このあたりの按配は佐藤健二の真骨頂なのだろうと思う。まったく異なる方向の議論も散見されるわけで、いろいろな議論がなされてゆくことになるだろう。興味深い論争が展開されることに期待したい。
 しかし、『ニセ学生マニュアル』的な眼からすれば、本書においても、まだ佐藤健二の全貌はまだまだ見えてこないということになるだろう。今後の大展開が楽しみになるが、それ以上に、あの時浅羽は何を考えて絶賛したのか、現時点ではどうなんだろうか、みたいなことをどこかで書いてくれないモンだろうか。鶴見済も出てきたわけだし。ww
 ともかくありがとうございました。私も何か書いてお送りできるよう頑張りたいと思います。
(追記)ボクの勝手なイメージでは、和綴じの本を風呂敷に入れて通勤してそうな佐藤先生が「ドキュン」「ツンデレ」まで論及されているのには驚きました。