師匠の退職

Inspiration is DEAD

Inspiration is DEAD

 恩師のひとりである濱谷正晴師匠(釣りバカみたいだが)が3月末にご退職となった。直弟子ではないのですが、なんとなく院ゼミとか顔出していて、3月末の退職ぱーちーに呼んでいただいたので、でかけますた。ずいぶん前のことだが、まアやっと書く時間ができた。会場に行ったら、看板とかビラとか普通退官なのに退職と書いてあった。就職した頃、先生ではなく、さんと呼んで欲しい、などとおっしゃっていたのを思い出した。アテクシは、どう呼ぼうと自由だRO!!、とか生意気こいて、先生と呼び続けているのである。
 退職の会、と称したのは、さすが団塊世代と言うべきか。ぱーちーの会場も、豪華バンケット会場ではなく、生協食堂というのも先生らしい感じがする。受付に行ったら、名簿に名前がない。幹事の二期生中瀬剛丸クンが「入れといたはずなのにおかしいな、ともかく私より更に上」などと言っていたので、アテクシは威風堂々「ゼロ期生」と署名した。たしかにゼロ期なんだよな。生島浩さんたち一期が三年ゼミやる前に二年ゼミ受講していたわけだから。受付の人たちも、「ゼロ期だって、あひゃひゃひゃひゃ」とか笑っていて、とてもフレンドリーだった。
 パーチーの前に研究室の歩みの映像作品上映と先生の講演があった。映像作品の出来が悪かったら、「どっかのセクトの講演会じゃあるめーし」とか不規則発言の一つもしようかと思っていたら、グッと惹きつけるような作品で、先生の仕事のモチーフがガッツり示されている。ひとりの被爆者の表情が、鮮烈な残像となった。
 ひとつの調査をやり続けて、著作をまとめ、さらに被爆者調査の記録をアーカイブ化されようとしている。当に人類の遺産とも言うべき仕事になるのだろうと思う。元ゼミ生たちは、異口同音に「英語にしないんすか?」などと聞いている。先生は、きっぱり記録をアーカイブ化したら、原点の長崎に旅立つ、と言い切った。ガンコな人だと思ったし、ちょっとカッコ良すぎねぇかおっさん、と言ってやりたかったが、正直感動した。
 もちろん英語化を拒否するわけではないようだ。しかし、こういう人だから、マスコミベースでチョーシコイテ踊りまくって、啓蒙活動しぃの、外国講演行脚シィーの、ということには、まったく関心はないだろう。院生の頃、調査方法論の洗練だとか、理論的体系化だとか、なんやかん屋で、いろいろ喧嘩ふっかけたことを思い出した。そんなことも、やりたきゃやれ、っていうかんじだったんだろうなぁ、としみじみと思った。
 先生は、若い頃、日本一ゴム長の似合う男と言われた。だっさいゴムの長靴が似合う男。髪はボサボサだし、服もよれよれ、ガラス瓶のそこみたいなメガネかけていて、たしかにゴム長が似合いすぎる。そして、この先生のたいしたもんだと思うのは、退職にいたっても、ゴム長の似合う男であったということである。髪はきちっとセットしていたのは笑ったが、実にゴム長が似あうカンジ。w 普通は、人生を回顧すると、そこそこ偉いさんの雰囲気が漂う。講義もぱーちーも、全然かっこいくないところが、逆にスゲェかっこよく見えた。「気がついたらいなくなっていたみたいにしたかったんだけど」。それじゃあ、ゴム長は似合わねぇ、ってことだよな。
 ゼミ生の人たちが、次々にスピーチした。面白いのは、どっちかというと怒られ役の人みたいなのが多かったことだ。ゴジラオキシジェンデストロイヤーでもりあがったTクンがゼミ中におにぎり食べながら報告して逆鱗に触れたことは記憶に新しいが、それもスピーチでしていた。まあ、当時は怒られても、酒のまして、先生は頭にネクタイ巻いて、マイク濱谷に返信していたのだが、最近の学生は、ちょっとビビっているのもいたみたいだ。初期のゼミ生とかが、ボロカスにこき下ろすのをポカーンとみていたし。
 これで習った先生はすべて退官した。いろいろゼミに出ていたので、退官パーチーには、いくつでたんだろう、というくらいに出てきた。それもこれで打ち止めである。年をとったもんだと思うが、まアしょうがないよね。