『映画の記憶』と映画ノムコウ

 本日=5日はオープンキャンパスで、個別相談や模擬授業などを行いました。なんと、学食も公開になっていました。とても力のこもったおいしいメニューでしたが、さすがに人数が少ないので、メニューの数が少なかったのはヘビーユーザーとしては悔しい気持ちでした。私が思うには、女子大伝統メニューの三色丼や、カテージパイをこういうときには出して、うんちくかましてほしかったような気もします。特に後者。学校経営の頃からのスタッフがいるはずですので、レシピは明らかなはずです。退職者を嘱託として活用することは、食堂に限らず、いろいろな意味でよいのではないかと思うのですが。つまりは大学のコンシェルジェと申しますか。
 夕方より渋谷へ。調査の時に大変お世話になった小川孝雄さんがプロデュースされた『映画の記憶』という映画作品の上映を見に行くためである。*1場所は渋谷のUPLINK。渋谷なんて詳しくないので、あっとゆうまに迷い、電話をして道案内をしてもらった。東急文化村の先に、カルチャーコンプレックスという、上映、展示、ダイニングなどが混在した、アートなスペースがあった。こういうスペースをみると、地方都市に赴任して20代後半から30代にかけてのアート盛りな年頃にこの種のアートの空気を吸えなかったこともあり、胸が焼けこげるような憎悪にも似た嫉妬心を感じるのが常である。*2
 しかし、受付を行って、ドリンクを取りに行くと、大手饅頭を一つずつ取るようになっていた。和んだ。実は高梁での集中で研究室に買った土産が大手饅頭だった。和三盆のような上品な砂糖アンの薄皮の饅頭である。岡山出身のとある碩学はこの饅頭が大の自慢だったりする。大学で上洛し、イナカモノ扱いされたなかで、土産に買った大手饅頭がほめられたことが涙が出るくらいうれしかったようなのだ。そんなことを思いながら、席に座った。小川さんに挨拶しようと思ったのだが、かなりのお歴々が参集していて、その応対でお忙しいようであったし、また不義理を重ねていた私は気後れしてしまって、挨拶しそびれ、ついには例によって逃げるようにカサコソ帰ってきてしまった。
 小川さんは、岡山で『映画の残像』という雑誌を主唱し、その後『映画の冒険』という企画上映のプロジェクトをしてこられた。今回の映画『映画の記憶』は、岡山で80年映画を見続けてきた松田完一さんのロングインタビューを編集したものである。松田さんは、『岡山の映画』という著作を執筆され、また岡山で映画資料館をされてきた知る人ぞ知る筋金入りの「映画ファン」である。昨年末の岡山映画祭で上映されたものを若干編集して、県外での初上映にこぎ着けた。映画の自主プロデュースという参加型スポンサーシステムの映画を撮られ、渋谷で上映されたことがきっかけとなり今回の上映となったそうである。
 切れば血が出るではなく、映画のフィルムが出るというくらいの映画漬け人生をおくってきた松田さんの「全身映画ファン」ぶりを、語りと、印象的な映像と、文字とで、綴ってゆく。松田さんは、もどかしくことばを紡ぎながら、「映画の記憶」を語る。今振り返ってどうのというよりも、記憶に突き動かされて語っているようにみえたのは、松浦雄介氏の『記憶の不確定性―社会学的探究』(東信堂)を某誌で書評したことによるのかもしれない。時に松田さんの記憶は曖昧であることもあるし、専門家の方からすると若干の誤謬もあるようなのだ。しかし、映画なんてぜんぜん知らない私には、細かい知識なんてどーでもいいのである。松田さんも「忘れましたなぁ」とにこにこされている。本当に映画が好きで、今はフィルムも残っていない無声映画からずっと映画を見続けられてきた姿が、「映画の余白」に浮かび上がる。伴奏のピアノも「余白の音楽」であった。*3映像も、そして字幕も、観るものをそっとつつむ。最後に松田さんのことばは千々に乱れる。記憶の力動にことばがついて行かない。そして「映画ノムコウ」*4の真実を見据えるかのような凝視のまなざしがアップになり、ずんたったずったった♪と音楽が入り、岡山表町商店街を高齢者用の乳母車を杖代わりに歩く松田さんの姿を追いかけるエンドロールに。商店街ノムコウ*5はもやに包まれている。「映画を観ることはずっと続く」という松田さんのことばが残響する。「映画の余白」は感情の化学の触媒となり、ドライオルガスムスのような寸止めの感動がひくひくして止まらなくなる。
 そのあとのトークショー。司会のおっちゃんは、きれいな標準語だが、岡山にしばらく住んだ人は、この人が絶対岡山出身だということを確信すると思う。そのくらい明確なハビトゥスが横溢している。そして松田さんも、おかやまのぢいちゃんそのものだ。照れくさいことや、都合の悪いことなどは「さあ、覚えておりませんなぁ」などととぼけて笑いを誘う。日本大学の田島良一さんは、専門家らしい学識でわかりやすく解説してくださりながら、松田さんの好みのタイプの女優にまでつっこみを入れていて、和やかないい雰囲気である。そして、もう一人のパネラーである柳下美恵さんという人は、無声映画にピアノで伴奏をつけるのを生業としている人だが、あたたかい「余白でそっと包む」話しぶりで、ここに来て本当によかったと思った。いろんな文化が胎動していることを再び実感した。現在において経済的にペイするようにするには、ダイエー型の文化からセブンイレブン型の文化へとシステム変換する必要などが模索されていることと思う。*6またネットの発達は、いろんな映像未来派野郎、演劇未来派野郎などを生み出し、アートの未来形をつくっていくだろう*7。そうしたものノムコウに、すべてを胚胎して背負っている松田さんの姿が明滅するような気がした。上映は9月にもある。詳細は下記へ。
http://ww1.tiki.ne.jp/~boken/fes.html
 かえってエンタの神様をつけるも、ほとんど終わっていた。なにやら、こぎれいになったクワバタオハラ。やふう検索二位になったんだぜと自慢しまくるめがね。もう一人がネタバレ。HPにエロ写真載せるということを言いふらす仕掛けをしただけぢゃねぇか、みたいな。うそぢゃねぇよごるぁあああ、とエロ写真うつす。上半身裸体セミヌードwithoutかつみさゆり。下北グローリーみちゃうとたいしたことねぇ、つーか、ばーけーたわしっこで浜ちゃんにつっかかった森三中大島に比べればショボ過ぎるだろ。「ならビビらすようなエロいのみせるで」。スナイパーのインリン仕様。くだんない。ちょっとびざびざだが、しょぼすぎ。あまりにショボイ。と思っていたら最後にインリン仕様Tバック着用バックショット。もうひとり「おっさんや」。なんともでかい。コラージュのように顔と釣り合いがとれていない。っつーか、チャブ山崎のよう、というか下半身プロレスの高山みてーじゃんか。ともかく、どえりゃ後ろ姿。嘘だと思うだろうと、振り向きざまショット一枚。これは別の意味だが、ぜんぜんまったくしょぼくない。脱帽でござる。そのあとさんまちゃんの空騒ぎをみたら、クワバタオハラが出てるじゃんと思ったら、坂本ちゃんですた。府中とかゆうフリーター。アフォ過ぎるな。天野。しかし、ムツゴロウさんは似てないと思うがな。血だるまになってオオカミをよーしよーしとやってみてほしいものだ。

*1:いろいろな事情ではじめに書いたものに若干注をつけました。

*2:この嫉妬心が、私の記憶の力動であるわけだが。

*3:「余白」論の下敷きになっているのは、新井満氏の言説(新井満,1997,「足し算芸術と引き算芸術」『そこはかとなく』河出書房新社)である。新井氏は西欧流の「充足主義」の芸術観を「足し算芸術」と呼び、これに「引き算芸術」を対置した。それは、不要なものを極限的にのぞいてゆき「余白でそっとつつむ」ような表現法である。新井氏は、「引き算芸術」=日本文化という等値はせず、むしろ西欧文明のなかのキュービズムミニマリズムという思潮、そのコンテクストにあるサティに「引き算芸術」を代表させていた。さらには、オキーフの絵画なども、新井氏は同様の文脈で整理している。ちなみに、南博編『間の研究』(講談社)は、生活の間、芸術の間にわけて、体系的・網羅的に「間」についての論考を編集している。心理、身体、礼法、拍子、リズムから、歌舞伎、落語、舞踊、音楽、絵画まで、それぞれの専門家が論を展開している。このうち、南氏自身は、総論部を執筆し、社会学社会心理学的な知見に基づき、問題を整理している(同書7-20)。南氏の提示する論点は三点であるが、うち二つを紹介しておく。一つは、①「間」は日本人に独特の文化であるという論点。「間」の文化を、南氏は、自著『日本人の心理』[1952]の「不足主義」「充足主義」という対立概念を使って説明しようとする。仏教が日本的に展開されることで、無常観とからまる「不足主義」が成立した。その代表がたとえば『徒然草』である。それは、芸術意識としての「余剰」「余韻」「余白」などの美を生んだ。それが、音楽や演技の間、武道の間などと結びついた。それらが、宗教観念と分離することで、日本文化としての「間」、生活文化としての「間」が生まれた。以上が、「不足主義と間」についての、南氏の説明である。こうした「不足主義」の文化に対して、合理主義の「理詰め」で、「間」を埋めてしまうのが、西欧文化の「充足主義」だと南氏は言う。もう一つは、②日本人の生活意識のなかで、対人関係、心理的な距離が、関係調整において重要であったということ。位置どり、距離のおきかた、そういった場合の「間」は、「程(ほど)」という言葉であらわされた。「程がよい」というのは、「間がよい」ということになる。そう南氏は言う。これは、「間」の内容的実体をあらわすものである。この点については、拙稿「間の文化再考」[95年9月11日12日の日記としてこのぶろぐにアップしてある。]を参照。

*4:言うまでもなくスガシカオ=スマップの「夜空ノムコウ」にひっかけたもの。この表現については、サリンジャー村上春樹スガシカオを比較検討した同僚N先生の論考を下敷きにしている。フロイトの扱いについては、松浦氏の論考と方向性の違いはあるが、記憶の力動をめぐる議論は一つの重要な論点であろうと思われる。

*5:http://d.hatena.ne.jp/inainaba/20050403/p2

*6:少品種大量販売から他品種大量販売へのシフトということである。映画で言えば、シネコンのような動きだが、まだまだいろいろあらわれるはずだ。この論点については、とある大学院生の未発表のコンビニ論の論考、および学会報告レジュメなどを参照させていただいた。

*7:増田聡さんの音楽をめぐる論考を下敷きに考えた。映像も編集し、自分でつくって配信して楽しむようになったりするのか。「映画館」というのは玄妙な意味を持つと思う。http://d.hatena.ne.jp/inainaba/20050221/p1