『セイヴィア』

 ちょっと必要があり、『セイヴィア』を最近見直しました。前にみたときは、『ライフ・イズ・ビューティフル』のラストが馬路すごくて、まああんなものは二度と見れないかもということへのこだわりがあり、すべてをそれと比較して見ていたこともあり、いいけどね・・・みたいに思っていたこともありますが、その後妙にその映画の残像がじわじわと浮んでくることも多く、と同時にこの映画にある救いや希望のようなものが、隣人同士が殺し合い犯しあいするようになった実録と比べてどうだ、ありていに言えばぬるいんじゃないかみたいなことが理屈として思い浮かんでしまい、にゃんともにんともであったわけです。作品紹介と、前回見たときの感想文を貼っておきます。

セイヴィア [DVD]

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作品について

「『プラトーン』のオリヴァー・ストーン製作のボスニア戦争」
 妻子をイスラム過激派のテロで失った在仏アメリカ軍人ギイ(デニス・クエイド)が、近くにあったイスラム寺院イスラム人を射殺してしまう。行き場がなくなった彼は、傭兵としての道を選ぶ。アメリカ人としてではなく、外国人部隊としてボスニア戦争に参戦するのだった。一時休戦となり、人質交換が行われた。ギイと同じ部隊のゴランは妊婦を家まで送り届けることになるが、ゴランは「敵の子供を身ごもった」と乱暴を働きはじめた。それを止めようと、ギイは仲間を射殺する。その場で娘は子供を産み落とすが、自分の子供を受け入れようとはせず、家族も娘を受け入れようとはしない。難民キャンプに連れて行こうと、ギイと娘の逃避行がはじまる。ボスニア紛争を描いた戦争映画には、サラエボ出身のアデミル・ケノヴィッチ監督の『パーフェクト・サークル』がある。こちらは戦争に巻き込まれた民衆の立場からボスニア紛争を描いているが、この映画は第三者であるアメリカ人の視点から描いているところがミソだ。(成瀬純一)
http://www.ichioshi.net/movie/review/_archive/savior.html

前回見たときにカキコしたこと

58 名前: い 投稿日: 2000/11/04(土) 12:48
『セイヴィア』みました。・・・きめも粗いし、いささかワンパターンのこだわりも目に付くような気もしないことはないけど、戦場という極限状況における様々なこと がらがドキリとするような鮮烈さで撮られているところを見ると、すげぇなと思います。戦場を体験した人も、しらけないで見られるようなところがあるのかな とも思います。なんというか、「袖ふれあうも他生の縁」ということかな。エキゾチックな子守歌が巧妙につかわれています。途中はあまりの凄惨さに、いたい けな赤ん坊が笑っても、おっかさんが母親の情愛を見せても、感動もへったくれもないのですが、最後に感情が炸裂します。バスのなかでたまたま出会う癒し系 の女性が鍵なのでしょう。わざとらしいと言えば、わざとらしいのでしょうが・・・。「つくりものの救い」ということを、制作者がどのくらいシビアに計算し ていたかということには、ちょっと興味があります。「プラトーン」と「フルメタルジャケット」とどっちがいいかというようなことでもあるのかも知れないけ ど、私は立場上意地でも前者と言うべきなのかなぁ・・・。

 やはり、「共感的視点」や「救い」といったことは、つくりもののようなものとして自覚されているような気がします。容赦のない暴虐との落差は、つじつまがあわないような気もしていたし、ぬるいとも思っていたのだけれども、それはそれで一つの作品性となっているんじゃないかなどと思いました。そして、アメリカの良心、良識といったものが、どんなふうにもかわりうるということが洞察されていたのではないかとすら思われました。なぜこれを見直したかというと、最近ある論文で誕生の絶対性みたいなものを考える機会を得たからです。