それぞれのダミアン/それぞれのプロレゴメナ

 母校のY先生退官プロジェクト、Project_Yの研究会に出て議論してなかなか面白かった。id:june_t さんも出席されており、学問的な研究成果を一般向けの書物としてどのように叙述するかというような議論になった。なかなか書くことのイメージがとらえにくかったのだが、かなりはっきりしてきた。編者からは、自分の研究全体の総括と展望をするようないわばプロレゴメナのようなものを、との要望が出され、さらに執筆意欲が増した。
 報告会は、これまでの報告により本論の内容を確認しあったことを前提に、序論をどう書くか、ということで宿題が出され、検討が行われた。june_t氏が「一つの書き方」として、フーコーの例を出された。たとえば、『監獄の誕生』で言えば、ダミアンの処刑の記述で、詳細な叙述により権力の一つのかたちが、鮮明なイメージとなって提示される。これが一応基調的な提言となり、「それぞれのダミアン」がどんな風になるかというシミュレーション的な討議が行われた。私は、きしさんのブログにあった「それぞれが語りたくなるような反省性、批判性」という見地を、引用によって提示した。あとは、ネットの情景、9.11の様子などを使った報告が行われた。
 今の大学院生の人は、まとまりすぎているくらいにまとまっているカンジがした。本もよく読んでいるみたいだし、丁寧に調べ込んでいる。アカデミックな論文を、上手に切り分けして書けるだろうなという人もいる。そうやって論文を量産することが、義務づけられているのだろうと思う。「それぞれのプロレゴメナ」を書くことは、研究の進ちょくという観点からすると、回り道に近いのかもしれないが、より本格的な力をため込むには貴重な機会になるように思った。
 最初に商業出版に書いた頃のことを思い出すと、いろんな痛い失敗をしたことを思い出す。たまたま、運良く就職できて、制限枚数のない紀要に習作のような論考を自由に書くことが出来、さらにそれを書き直して、著作を書くことが出来ということがあって、ここ数年なんとなくものの書き方のようなものがおぼろげながら見えてきた気がするが、それにしてもベチョッとした、鈍重なものを書き続けてきたことには忸怩たるものがある。そういえば、Y先生もそのむかし、いろんな名人達人の序文を見せてくれ、「書き方が上手いだろ、それに比べて・・・」とご指導下さった。今反省してみるとどんな点が痛かったのだろうか。卒論に関係しそうなことを列挙しておく。

勉強したことをすべて書く

 たいして勉強したことのない人間は、ちょっと本を読んだだけでも、すごく進歩した気になる。これは面白みがわかったということだと思うんだけど、それを全部書きたくなってしまう。これが痛い。影響されやすい人間は特にそう。せっかくちゃんと書いていたのに、たまたまなんか本を読むとそれを書きたくなる。そして全体を見失う。→処方箋:これも関連する、あれも関連するということで論旨を変えたりしない。参照注にしてぶら下げておき、枚数が膨大になったら、迷わず捨てる。自分は自制心がないと思ったら、よけいな本は読まない。

論理、図表、レトリックなどに殉ずる

 論理や図表やレトリックは、自分の言いたいことを最大限効果的に述べるためにあるものである。ところが、これが自己充足的な悪循環を起こしやすい。惚れ込んだ論理、図表、レトリックのほうを最優先させる場合がある。本人は惚れ込んでいるから、熱病のようなもので完全にてんぱっちゃっている。忠告しても聞かない。馬鹿面さらして、小指をたてて、うっとり言説を紡ぐ。そこから、常識を越える立論が創発する可能性もないことはないだろう。しかし、多くの場合あまりに痛いことになるような気がする。→処方:言いたいことをつねに確認する。多少の乱れはしょうがないので、言いたいことの論旨を、各章や、節の最初と終わりに、くどいくらいにくり返す。

込み入った論理を使う

 しかし、しかし、しかし、と逆接をくり返し、わけわかめになったところで、弁証法だとか嘯く。すげぇ細かい場合分けをして、一つ一つをクドクド説明する。これは精緻とも言えるが、枚数によっては愚挙としか言いようがないだろう。TPOを考えずこれをやり、整理できない頭、論理的思考力の欠如を、アカデミックな精緻さとしてごまかすようなばあいもある。わけわかめな論文を書き、「問題はあくまでも深遠である」と結んで、ゼミ中から集中砲火をあびて、泣きそうになったことを思い出す。→処方:本文の論理は単純にする。派生的な議論は、すべて注に落とす。長いものは、補論とする。

惚れ込んだ書き手の真似をする

 論文でも、バンドで言うところのコピーバンドしている時期ってあると思う。でまあ同じようなことをしたくなる。しかも、けっこう枝葉末節ばかりを真似していることが多いと思う。私の頃の、っつーか、自分が怒られた症候。広松渉症候群。唐文脈、漢語の多様。講談社学術文庫類語辞典』とか駆使して痛い文章を書く。見田宗介症候群。『価値意識の理論』を読み、博覧強記の体系化をめざす。勉強量、論理的思考力不足で、崩壊する。疑似数学的な記号化を好む。真木化すると、ひらがなの多様、体言止め、疑問形など情緒的なレトリックを多用するゆようになる。井上俊症候群。柔らかいエレガントな切り口から、現実分析をめざすも、ひねった切り口があまりに痛いものとなる。関西風の芸をまねるも、上手いギャグを繰り出すことができず、布団が吹っ飛んだ程度に終始する。今でも、「ぬるい」とか、応分の論者のキメの文句を多用する人をよく見かける。→処方:誰かに馬鹿にされるくらいしかない。
 まだまだあるけど、きょうはこのくらいで。今日も宴会だ。さすがに昼は、軽くおそばを一杯。胃がもたれている。胃腸はものすごく強いのだが。