クリステヴァ『斬首の光景』(みすず書房)

 クリステヴァの翻訳書が出て、書店で見かけ、表紙にはかなりひくものがあり、めくることがなかった。斬首は、私にとり、かなりトラウマなことだからだ。でもクリステヴァがどんなことを書いてあるか、かなり気になり、本屋に行くたびに気になっていた。しかし、怖いので手に取らなかった。ホラーとかは、ぜんぜん怖いことないものが多いのに、これは怖い。たぶんトラウマなんじゃないかと思う。

斬首の光景

斬首の光景

 斬首というものをおぞましいものとして意識しはじめたのは、記憶するかぎりは、NHKの大河ドラマ赤穂浪士長谷川一夫の時で、腹なんか切ったって氏なねえジャンとかゆったら、介錯人とゆうのがいてバッサリやるんだYOと手刀をクビにあてて、にやりと笑った祖父の顔が怖くて、鳥肌がたった。以来介錯だ、打ち首だという、時代劇のシーンを見るたびに恐ろしいイメージで頭はいっぱいになった。そのあと歴史の授業で、ロンドン塔とブラッディ・マリー、ギロチンとフランス革命などの話を聞くたびにおぞましい気持がこみ上げた。教師は、調子にのり、人間解剖のうんちくを傾けながら、腹からでてくる回虫玉はカレーうどんそっくしだけど、クビの切断面はまるでシャケの切り身だぜとかゆったのに対し、憎しみを感じた。
 そのあと、佐川一政氏がフランスで裁判中に、日本人で最初のギロチンかなどということで、ギロチンのことがあれこれ週刊誌に載ったが、怖いもの見たさで記事を読むたびに、恐ろしいイメージに苦しんだ。怖いこと書いてあるんだもんな。しばらくは生きているのかとか・・・。断末魔の想像をするだけで、身の毛もよだつ。ところが、新聞の書評類を見ているうちに、読んでみようかという気になった。

朝日新聞 2005年03月06 池上俊一

 先史時代に脳を抜いて墓に飾られ、また美術品にもなった頭蓋(ずがい)骨。ペルセウスにより切り落とされて血を滴らす蛇の髪を生やしたメドゥーサの頭。ギリシア正教会のイコンとそれを引き継ぐ西欧のウェロニカの聖顔布。ルネサンス期以来画家たちを虜(とりこ)にした女たち(サロメ、デリラ、ユーディット)のために頭を切られる男たち。さらにはギロチンから転がり落ちる首、ウォーホルによるマリリン・モンローの顔の複製や映画の中の斬首……。クリステヴァは、こうした西欧文化に充満する過剰ともいえる斬首のイメージを相手に、精神分析学はもとより、神話学、人類学、美術史、文学、神学の知識を総動員しながら考察を重ねる。ルーヴル美術館での展覧会のカタログということもあろうか、堅固な論理構成はないが、筆の赴くままに、鋭い思索を展開してゆく。
 彼女によると、夥(おびただ)しい斬首の光景が繰り返し描き出されるのは、つぎのような理由からだという。すなわち話す存在となり表象能力を獲得するために母から分離した子供は、その喪失感から抑鬱(よくうつ)状態に陥るが、斬首のイメージがそこからの再生を助けるのである。斬首の光景は「去勢」の象徴的代用物にとどまらず、母の胎内からこの世に生まれ落ちた人間が、かならず通らねばならない根源的な喪失の過程、死と女性的なものへの恐怖を表すとともに、その不安にたいする崇高な防御ともなっているからである。見方を変えれば、表象する動物としての人間が思考する心の奥底を視覚化したヴィジョンが、首の光景だというのである。
 さて、このいかにもフロイト的な解釈に説得されるかどうかは別として、私は、当初感じたおぞましさの印象が、読後はサッパリ消えていた。政治や経済、科学の歴史とは次元を異にした、イメージの到来とそのさまざまな現れをめぐる深層の歴史があることも教えられた。  

 おそらくは、クリステヴァの東欧出身という出自を考えると、さらに含蓄は深まるのだろうと思う。精神分析的なうんちくは展覧会カタログ用の趣向と考えることができるかもしれない。そして、おぞましさが消えたという。それで読んでみることにした。たしかに、東欧的世界、サロメ=クビを斬る者であり、かつ女性である者などなど、「向こう岸」の世界についてのうんちくは、興味がつきない。イメージの分析は、恐怖の深層を省察する一助となった。でも、おぞましい印象は消えない。このことがあたまにのこっていたこともあり、クソバカな写真を卒業謝恩会で撮った。おぞましいのは、私の顔ばかりではないだろう。