三浦展『「かまやつ女」の時代』(牧野出版)

 昨日吉祥寺の本屋を歩いていたら、『「かまやつ女」の時代−−女性格差社会の到来』(牧野出版)が平積みになっていた。ロンロンの弘栄堂では、『仕事をしなければ、自分はみつからない。−−フリーター世代の生きる道』と横並びになっていて、ここのところの三浦氏の根幹的な主張を読解した書店の見識のようなものが伝わってきた。「楽チン志向の自分らしさ志向、自分探しは意味がない」というメッセージがクローズアップされるかたちになっていた。それを、「女性の変化」という主題に限定し、詳細に論じたのが本書である。本日久々に学校に来たら、出版社から本が届いていた。「第三回調査」に協力した(というか回答者の学生に図書券を下さったりしたのだが)こともあり、送って下さったのではないかと思われる。ちなみに、調査の協力者がid:TRiCKFiSHさんであったりする。一般的な紹介として、「楽天」の紹介を引用し、目次を示しておく

★「かまやつ女」って何だ!!
近年若い女性の間で見られるファッション。昔の男性のようなカンカン帽をかぶり、だぼっとしたパンツにシャツ。スカートをはくことはまずなく、はいても下にスパッツや長い靴下。肌の露出はきわめて少ない。全体的にゆる〜い格好。まるで、ミュージシャンのムッシュかまやつかまやつひろし)の風体に似ているところから、著者は「かまやつ女」と命名
★「かまやつ女」が指し示している時代とは…!?
「自分らしさ」や「オンリーワン」を大切にした、自由に見えるかまやつファッション。しかし、その背景にあるのは、若者、特に女性の階層格差が、いよいよ日本でも始まったということなのだ!
★目次
第1章 かまやつ女と階層社会
第2章 現代女性の分類学
第3章 かまやつ女にいらだつ大人たち
第4章 女らしさは自分らしくない
第5章 楽ちん主義でしかない自分らしさ志向に明日はない!

 非常に含蓄のある書物として、本書が仕上がっていることに注目したい。「自分らしさという規範」については、土井義隆氏が長崎佐世保事件との関わりで論を展開し、昨年注目された。三浦氏は、この論脈を自覚的に意識し、コミットメントを行っている。佐世保事件の文脈は、三浦氏が平行して行われている仕事である「ファスト風土論」と深く関わる。つまりは、日本社会の変化の核心にある価値意識への反省である。他方、副題を見ればわかるように、山田昌弘氏の「希望格差社会」に対する意図的なコミットメントが本書には含まれていると思う。明示的には論じられていないけれども、社会構造論、社会意識論についての重厚な勉学の成果がこめられている。おそらくは、ウェーバーの宗教社会学、社会構造論、物象化論などを勉強した「初心」を振り返る気持があったのだろうか、卒業論文の主題が「マックス・ウェーバーの宗教社会学ニーチェニヒリズム」というものであったことを、経歴に明示している。社会の構造変動への社会心理学的アプローチがその根幹にはある。しかし、これらはあくまでも隠し味程度の位置づけにとどめ、詳細なサーベイと軽妙な分析によって、読みやすく、そして実践的な書物として本が仕上がっている。女性の生き方、企業のとるべき態度などについて、現実的な提言がなされていることは、注目されるべきであると思われた。

「かまやつ女」の時代―女性格差社会の到来

「かまやつ女」の時代―女性格差社会の到来

 卒論のことが書いてあったので、少し昔を思い出した。私が学部の五年生、三浦氏が三年生のころ、三浦氏とは、週に何度かは必ずお互いを訪ね、話をする仲であった。彼は、ウェーバーをはじめとする古典を耽読し、また新興宗教についての資料収集を綿密に行い、他方で福田恆存をはじめとするモラリスト的な評論を読み、また軽妙なユーモアでコラム調の雑談をするのが得意で、話していて飽きることがなかった。そんな思い出のなかで、本書と絡んで一番重要と思うのは、彼のご両親が「共働き」であったということをくり返し話されたことだ。たしかご両親とも教職だったと記憶している(お父様は間違いない)。そして、そうした「共働き」の家庭を非常に誇りに思っているように見えた。また、職業を持った女性と家庭を創ることを将来の夢として語ったことが一度あったと記憶している。彼の部屋は、いつもきちんと片づいていて、料理を手際よく創っていた。「今日は野菜の煮物をつくったんだ」といったような口調が思い出される。そうした生活スタイルを前提にして、本書が書かれているということに留意すると、含蓄もまた違ってくるだろう。いろいろな批評は出ると思うが、本書は、一つの問題提起、一つの立ち位置として、十分な検討に値することだけはたしかであろう。