脇役:太地喜和子;高橋長英;大滝秀治

 午前中『白い巨塔』を二回分見て、食事をして出勤。卒業アルバムをもった学生たちが歩いている。ああ卒業礼拝か、と察知した。うちの大学は、キリスト教系の大学なので、最後に卒業礼拝をする。礼拝は、実は毎日一限目と二限眼の間に行われているし、教授会の前にも祈りがある。私は浄土真宗仏教徒だが、それはそれで尊重している。まあ、幼稚園と中学、高校がカトリック系、小学校の時はYMCAに出入りしていた。だからさほど抵抗がないとも言える。もちろん、とりわけ中学、高校時代に、「植民地的なもの」という言葉が頭をかすめたときが、何度かある。しかし、まったく逆の体験をしたこともある。それにいかなる態度やスタンスをとるかということは別にして、一定のピボットをそこから得たことだけは間違いないし、それは一定の意味があったと思う。礼拝のあと、明日の卒業式の練習をする。昨年までは各学科から人がでてやっていたが、数年ぶりに体育学の先生方が復帰された。列を作り、整然と着席してゆく練習である。素人だとさすがに行き届かない面があり、専門の先生方が指導に復帰されたということになった。
 さて、『白い巨塔』だが、猛烈に長い。少しずつ見ていることもあるが、要約なかばくらいで、何日もかけて、裁判が結審するところまでを見終わった。飽きることはない。成り上がり者の野心と上流階級の高潔というような図式が見えたかと思うと、それがまたいろいろな変幻をみせ、コクのあるニュアンスをつくりだしている。太地喜和子はやばいほどすごい、というか馬路やばい。財前の母親を京都案内してからあとは、むしろ田宮二郎よりやばい情念を横溢させている。それにより傲慢な執念は切なさを帯び、また高潔な信念は陳腐さをたたえ、それによりドラマはよりリアルなものになっているように思われる。戦後の復興の中で、学校に行けなかったようなクラスの人々が、親戚縁者の助けにより分不相応な学校に行き、成り上がる。結果得られたポジションと、そこでの屈辱は、似たような境遇にあった私を含めた78年当時の日本人への強烈なメッセージとなっている。恥をさらせば、いろいろな理由をつけてきたが、私は親がとれというので博士号を申請した。たけちゃんの兄、北野大が博士号をとったとき、おやじの菊次郎は「工学博士北野大」という表札を家に貼り付けたらしい。それを甘受するぶざまな「栄光」を私は震えが来るほどよく理解できる気がする。*1同様に、それぞれの財前五郎を生きなければならない人は少なくないだろう。
 高橋長英演じる柳原医師も成り上がり者であり、良心と報恩への葛藤は、胸に迫るものがあった。しかし、高橋はほとんど今も変わらないように思われる。まあそれでも、横綱級に変わらない2人がいる。1人は北林谷栄である。ただまあさすがに『阿弥陀堂だより』なんかを見ると、さすがにやばいほど変わっている。でも、数年前までと40年以上むかしとたいして変わらないのも事実である。しかしなんと言っても、まったく変わらないと言っていいのは、大滝秀治である。裁判長で出てきたときは、わ!と叫んでしまった。なんだよこれってかんじ。「つまらん、おまえらの証言はつまらん」とか言い出しても不思議じゃない感じなんだよね。しかし、はてなの鍵語大滝はすごい。

 特に『必殺仕置人』の第1話に登場した、浜田屋庄兵衛こと「闇の御前」は、現在でもファンの間で語り草となるほどの、インパクトを持った悪役として有名である。・・・1977年、テレビ朝日系列の刑事ドラマ『特捜最前線』がスタート。第1話からのレギュラーメンバーとしてドラマに参加した大滝は、「船村一平」という老刑事役を熱演。およそ暴走とも言えるくらい、感情に正直なオーバーな演技と豊かな表情、そして、名脚本家・塙五郎?が描く人間味溢れる船村の人間像が視聴者に受けて一躍人気者になった。

 これはほんの一例。しかし、「かわらん」。

*1:少なくとも文系専門家的には、そんなものないほうがかっこいいというような文化が、数年くらい前までは優勢だったと思う。最近は変わったが。