車谷長吉『飆風』『反時代的毒虫』

 吉祥寺の本屋から本屋へと立ち読み散歩をしていたら、弘栄堂書店で車谷長吉『飆風』(講談社)を発見した。この人の本には作品目録がついていることが多い。で、平凡社の新書から『反時代的毒虫』という対談集が出ていることも知り、二つ購入して耽読しはじめて数日がたつ。慶應大学の独文を出て、「作家になるには全集を読め」という小林秀雄の教えにしたがい、幾多の全集を読破し、カフカ全集に至ってはドイツ語で読破し、文学部出身なら羨望の対象になるようなクリエイティブ系の会社に勤めて、かつ物書きとしても嘱望された人が、堕ちた挙げ句の果てに、芥川賞を目指し、詩人の「嫁はん」とそこそこスノッブな貧乏生活をし、自己韜晦しながら、毒をまき散らすような小説を書いて、実名プライバシー問題で人を傷つけというような経緯を踏まえつつ、一つのオトシマエとしてちょっと自己模倣な創作日常を、「最後の私小説」として書くというふれこみで、身を焦がすように芥川賞に憧れた日々と、見返すために直木賞を狙いに行ったことなどが、書いてある。映画化された『赤目四十八瀧心中未遂』の執筆体験記みたいなもので毒づいているのだから、とんでもない人だ。
 結婚して、年輪を重ね、福田和也が「こけおどし」「ハードボイルド」という秀逸な括りを与えた頃の作品とは、ちょっと作風がかわり、飄々とした軽みやおかしみをたたえているような気もするのだが、ぬらっと見えるものは、底冷えがするように恐ろしいリアルであるように思う。「嫁はん」とのなれそめについては、毎朝朝飯をつくってやるという女があらわれたので結婚したということなのだが、言うまでもなくこの「嫁はん」は高橋順子であり、「時の雨」を「長吉とわたくし」というラジオドラマでやったらしいし、夜な夜な2人句会をやって楽しんでいるらしい。ひと月も平気で洗濯しないでいて、風呂にも入らず、トイレに立つと、「ウンコか?」などと聞いたり、JUNKOのJをとると「UNKO」だと本に書き、一日何回トイレに行ったとか、イエの床に落ちている髪の毛や陰毛の数を数えていたりしていてる車谷とくらし、だから作家と住むのはおもしろいなんて言っちゃう人で、カラカラと笑いたいところではあるが、諧謔や軽妙や瀟洒や滑稽のなかに救いはなく、2人の生活にはじんわりと死のイメージが迫ってくるような気がする。まさに、逝ってよしなものであり、。「倒れるように夢を見ている/夢は人の頬に さみしい分別の跡を残した/地上にはちいさな傾斜」なんて書いて尖っていたころにくらべ、丸くなったんじゃないと思ったりもするが、実はぜんぜんかわってないんじゃないのかと思わせる恐ろしさがある。実質的前作『忌中』における夫婦の情景が鮮烈に浮かび上がってきた。上智大学の講演である「私の小説論」には、「死」をめぐる陰鬱な格闘が書いてあるが、前から疑問に思っていた深沢七郎について書いてあり、かなり萌えだった。「楢山節考」を中心に「庶民烈伝」なんかにも言及していて、興味深かった。
 『反時代的な毒虫』(平凡社新書)の方は対談集であるけれども、ラインナップがすごい。江藤淳。まあこれはわかる。ありうる。「物」と「私」という作品のモチーフが饒舌に語られている。次に白州正子。無名時代の車谷の論考を読んで白州がファンレターを送ったということなどは、エピソードとして楽しい。『赤目』で「人が人であることの悲しみを描きたかった」という話などは、汚物嗜好な隠し味がカチンコチンエレクトなところだと思う。そしたら、このおっさんEDというか、逝っちゃってるだな。そこまでゆうか、ふつー。w 水上勉。はたして出ましたニオイフェチ。っつーか、ぢぃさまふたりで陰花のニオイの話で盛り上がっている。それが、幼少時のかくれんぼ体験、水上「隠れる場所ですよ、あそこは。匂うんですよ」。車谷「におうんですね」。中村うさぎ。まあ、サイバラじゃ対談にならないだろうけど。浪費のウサギ。逝ってよしなものを語っている。車谷の父親が7000万円の借金を背負って狂い死にした話などがしてある。そして、河野多恵子奥本大三郎芥川賞で×をつけた2人と『飆風』に書いてあった。河野多恵子が「落としてやった」とゆった話なども書いてあったが、その話は流し読みの範囲では見つからない。題して「文学カネ問答」。最後に高橋順子との句会のライブ。これはなかなか面白い。
 「私は私であることが不快なのです」。最後ッ屁のような文言。やっぱニオイフェチではないのかね。ボクは違うけど。w