キタ━━━━(゜∀゜)━━━━ッ!!

 が、帯に書いてあるということで、出版前から大きな注目を集めた北田暁大『嗤う日本の「ナショナリズム」』が出ていないか、本屋に見に行ったら、はたして平積みになっていた。さっそく購入。本屋を出ると雪が降りだしていた。プールで泳いで帰ってめくる。帯に著者名がないか、すなわち「キター」AAを受ける「ダ」がどこかにないか?ダジャレな外連があったら、笑えるのにと思ったが、ねぇ。つまんねー。実はこれだけ言いたくて、このネタを書き始めたのだが、一応内容にも触れておく。ショーモネェことしか言えないンだが、一応自分用のメモってことで。
 「アイロニーと感動指向の共存」「世界指向と実存主義の共存」を読み解く、−−私なりの勝手な表現を使えば−−一種の社会心理史(誌?)として、刺激的であった。最後の方で、アイロニーじゃなくなって、ナイーブになっちゃったみたいな宮台真司氏の指摘をとりあげ、そーじゃなくてアイロニーを洗練させたからナイーブになっちまった。とも言える・・・、でもね・・・。そんな言い方が興味深かった。
類似した指摘としては、ポストモダンアイロニーの洗練ではだいぶちがうかもしんないけど、小谷敏氏の、カチンコチン真面目あってのゆるゆるポストモダン、ゆるゆるだけだとわけわかめ、なんともにんともいたしかたなしというのが、一番先駆的なんじゃないかと思う。ただ、北田氏の議論はカチンコチン再帰なんつーのも今じゃどうなのよと、疑問を提示していて、「語用論的転換」を媒介した反省性により、ストンと一落としでチャンチャンじゃなく、奥へ奥へと深めてゆくような反省性が、興味深かった。
 で、これもゼミのテキストにしようかと思ったんだけど、若い学生だとなんとなくわけわかめな事例がならんでいて、下調べが大変かなぁと思った。ずんずん深まってゆくことばの乱舞は、知的フェロモンがギンギンだけど、それはまあレバ刺し、ホルモン大好き系の戯言で、あっさりしたものが好きな人たちにはどうなんだろうと思わないことはない。この点では太田省一氏のこなれた論述に一日の長があるように思った。もちろんそれは芸風の違いにすぎないわけだが、少なくともテキストに使うという見地からはそうなると思う。
 ナンシー関論にはさすがにぶっとんだ。これはみくしでdice-x氏の予告があったので、心の準備はできていたが、読んでみてあらためてビックリした。そしてもっとぶっ飛んだのは、「映像学者の長谷正人がいうように」の一言である。こんなこと言っちゃっていいのか?ワハハハハ。まあともかく一年くらいかけて、じっくり味読したい。
 ペラペラめくっていたら北野タレント名鑑がはじまったので観た。ビートきよしとヒロシが出ていた。きよしが「きよしです。相棒に漫才やろうと言うのにやってくれないとです。今かみさんのラーメン屋で出前持ちやっとるとです」というのには、禿げしく笑いますた。ヒロシも「ヒロシです。北野タレント名鑑に出ろと言われました。断る勇気がなかったとです」というナイスなアドリブを魅せる。ヒロシ「きよしさんが漫才やろうって言うんですよ」。ガダルカナルタカ「やめたほうがいい」。
 最近見境なく本を買っている。部屋がどんどんトッ散らかる。やはり買わずに立ち読みと借りる方式にしようかと思い始めた。しかし、買わないと読まないからねぇ。