入江敦彦『イケズの構造』(新潮社)

 むかし『週刊朝日』に、上野千鶴子氏が京都人の洗練ということを関東人との対比において書いていて、関東人は本音を知るだけで満足する、京都の人は本音と建て前の存在を前提に、距離を問題にする、とまあこんな主旨で、案配加減の妙というものに非常に惹かれた覚えがある。これは明らかにゴフマンの影響のうかがえる指摘であり、大村英昭氏が日本社会学会のシンポジウムでゴフマンについて語ったときにも、同じような主旨のことをおっしゃっていた。陰謀公家文化と、猛々しく罵倒することも可能かもしれないのだけれども、イヤミったらしい案配加減のやりとりのなかに、切々たる思いやり、気配り、執念のようなものがあるのかもしれないと思ったこともある。祇園祭の京都の老舗を描いたNHKの朝ドラがあって、入り婿の父親が、ナイーブなよそ者が見たら毛が逆立つようなコア京都な立ち居振る舞いで、篤実に店を守り、婿入り以来一度たりとも帰らなかった実家の鞍馬に、死期を悟ったときにやっとのことで戻り、火祭りに「これが火祭りや!」と絶叫するシーンがあった。この炸裂感は、映画『ライフイズビューティフル』最後の一分の情念の化学にも匹敵する凄みがあり、強烈な印象となって残っている。
 しかし、このいずれも「よそはん」の戯言なのかもしれないなぁと、入江敦彦の新著を読んで思った。昨日阿佐ヶ谷に食事に行き、南口の書店に平積みになっているのを購入した。イラストがなにわ金融道しているような(・∀・)イイ!!ものであり、ひさうちみちおのもの。新潮社の紹介がかなり詳しいので引用しておく。

「ぶぶづけ伝説」より怖くてリアルでおもしろい、これが京都のイケズの真実どすわ。 京都人=イケズ? OK認めましょう。でもイケズはイヤミでも皮肉でも意地悪でもない。それは千年磨かれた生活の知恵、言葉の技なのです。「コーヒーなとあがっておいきやす」の真意から、ほめ殺しといらんこといい、「そやねえ」活用術まで、京都ネイティヴによる爆笑痛快エッセイ。よそさん必読!
http://www.shinchosha.co.jp/cgi-bin/webfind3.cfm?ISBN=467502-4

 入江氏は、言わずとしれた京都ブーム仕掛け役の1人である。昨日書いた増田聡さんの本を出した洋泉社から、新書本が出ていて、これがまあ代名詞的な存在になっているのかもしれない。入江氏が、京都に住み続けているわけでもなく、東京にもいたし、ロンドン在住というのも、なかなか興趣あふれるものがある。そして、「京都ブーム」なんてものがさらにブレイクして、「イケズ」のうんちくを口角泡を飛ばしてゆう椰子らが出てくるかもしれない。検定試験までつくってさ、なんか、昔あった吉行和子のエッセイじゃないけど、『どこまで演れば気がすむの』ってかんじ。利いた風なことを言えば、「たくらみが深い」とかゆうことになるんだろうが、まあもうそんなことを言う年齢でもないなぁと思う自分がいて、またそういうことを書きたいタイプの自分もいてということで、苦笑してしまうことになった。新潮社は『考える人』でも、入江のイケズ論をとりあげている。

入江敦彦「イケズの花道」
 京都育ちでない人にとって最大の京都の謎。それはおそらく「イケズ」でしょう。名高い「ぶぶづけ」的失敗をはじめ、僕はこんな目にあった、あれってやっぱり……とおぼつかない「被イケズ体験」を語るとき、外国の土産話のように誰もが少し嬉しげ。やはり、京都は異国なのかもしれません。だとすれば、そこには暗黙のルールがあるのか。そもそも何をイケズというのか。──京都人も争って読んだ快著『京都人だけが知っている』の著者・入江敦彦さんが、意味もわからず恐がられているイケズの正体をはらりはらりと読み解きます。とはいえ生粋の京都人である入江さん、イケズは意地悪ではない、と証明しつつ随所に織り込む「ミヤコの言い方」は憎らしいほどイケズです。
http://www.shinchosha.co.jp/kangaeruhito/plain/plain14.html

 この特集には、井上章一「洛外からの『ざまあみろ』」や高橋マキ「裏京区へようこそ」などが採りあげられている。極私的には特に後者が、面白い。鬼マイツボなものである。これを読むと、「イケズ」の階層性だとか、いろんなことが知りたくなるだろう。引用しておく。引用先は上に同じ。アーティストより、コア地元な連中の飲んでいるところの方がいいという人は、多いだろうけどさ、まあかなり(・∀・)イイ!!かんじでしょう。

 「見つけられない人にはどうやってもたどり着けない店が、京都にはある……」という不思議な話を聞きました。マキさんは雑誌のライターとして休む暇なく駆け回る京都っ子。メディアの求める「京都らしさ」のステロタイプに辟易して語るのは、リアルな京都の意外な姿。いわく路地奥に潜むアーティストの集う料理屋、バラック建築の痛快な焼肉屋、アジアの空気が漂う店、人となりの迫力と濃密さでノックアウトされる店主(おかあさん、おとうさん)たち……。でも、この魅力にみちた場所や人々が、マニュアル頼りに「オモテの京都」を期待する人の目には入らないのだとか。なんて残念なことでしょう。さあ、ガイドを捨てて、見えない路地を辿り、裏京区へとまいりませう。

 あっとゆうまに読み終わる本です。それだけ面白い。思うのは、「イケズ」というのは、どの街や農村にもあるのではないか。でも、京都のは格別に魅力的なものがある。そして、イケズで国際関係を論じられるのだろうかという興味がわいてきた。ロンドンにいるのなら、聞かせて欲しいと思った。
 NHKの特集で「バブル美術館」という番組があった。バブル期に、ジャパンマネーは世界中から投機のために絵画を買い集めた。イイものはウルトラ高値で、そうでもないものもそこそこ高値で買い付けた。ろくに勉強もしないで・・・。スイスの老画商は、どんどん絵を販売した。そして、バブルがはじけたあと、狙い澄ましたようにイイものだけを買い戻した。ヨーロッパから流出した名画だけは、商売抜きの執念で、ヨーロッパに買い戻した。この商売の根底には芸術至上主義がある。画商は、儲けた金で集めた好きな絵画をかざるため、自分の名を冠した美術館を建てた。バブル時代に、日本はばったもんもなにもかもつかまされ、したたかな海外の画商はバブル期にはどんどん売り、バブル崩壊後は倉庫に眠る絵を見て、イイものだけを叩いて安値で買い付けて帰る。これは「さくらんぼ狩り(チェリーピッキング)」などと呼ばれているらしい。こうした商売と伝統のせめぎあいは実に教訓的だと思う。そんなことを考えながら、京都タワーや、京都の駅ビルや、かわりゆく京都の風景などを思い出しつつ、イケズの本を読み終えた。グローバルとか、ナショナルとかという対立項とは、異なる次元に保守はあると思いたいという心情は、大衆論や保守主義の本を乱読した20年前ほどではないが、自分のなかにくすぶり続けている。