平岡正明『大落語』(上下)法政大学出版局

 うちのバカ親ぢは、元警察官で野毛の闇市の交番に勤務していた。最近は投稿マニアとなって、自分史やエッセイを投稿しまくっている。交番巡査の視点から、野毛の闇市の風景を書いた作品には、逝ってよしなギャグや諧謔や諦観がはじけていて、共感する部分も大きい。また、歴史的な証言としても一定の意味を持つだろう。でまあ、朝日新聞の学芸部にいた大学サークルの後輩にちょっと読んでもらった。出版するには一定数の読者がいないと・・・などとダメを出しつつ、「ちょっと平岡正明さんに読んでもらいましょうか?」などと言うので、バカ親に聞いたら、「平岡さんって、バナナのたたき売りかなんかの人だろ、オレは警察でメシ喰った人間だし、やっぱ左翼のほうの人に労をとってもらうわけにはいかないよ」と笑った。慎ましい野心を少しだけ誇りに思った。と同時に「バナナのたたき売りかなんかの人」という言い方には、笑った。怒ってはいけない。ここにはバカ親なりの敬意がある。おそらくは平岡氏は、存外よろこぶのではないか、っていうか、よろこぶ人であって欲しい。そんな思いが、この本の購入動機である。
 落語を論じることは、畢竟うんちくがともなう。うんちく一般が悪いなどといううんちくにくみする気は毛頭ないけれども、それをイヤミなく文章化することは、馬路むずかしいのではないか。古谷三敏『寄席芸人伝』(小学館)は再三読み返したマンガだけど、それでもそれなりのえぐみは残存しているだろう。ビートたけしじゃないけれども、江戸っ子はいいものは黙って逝って黙って味わうってなことが書いてあるわけだけど、こればっかりはメタレベルのほうが、クサくなるから面白いモンだ。もちろん読み手の水準がそこに投影されているだけとも言えるわけだけれども。志ん朝さんがすごいのは、ドイツ語の本を読んでいたってたぐいのことよりは、大須演芸場に出ていたというたぐいのことだってことも、「青物の魚」のようなもので、調理はむずかしいし、足が速い。あっとゆうまにクサくなる(見田宗介『白いお城と花咲く野原』)。
 しかしである。『野毛的』みたいな本や、いろんな生まれ故郷下町野毛のことがらと関わってきた平岡正明氏ならば、きっと面白いことを書いているに違いないと、出版を知ったときに確信した。上巻には、私の小学校の先輩にあたる田中優子氏が、下巻には荻野アンナ氏が、文書を寄せている。野毛イベントつながりで、識者によってはなにもそんなことしなくても、と思うだろうけど、町内の風呂屋が定休の時によくいった隣町の人参湯という銭湯で講演会とかしたみたいな話を通して聞くと、(・∀・)イイ!!と思ってしまうから、いいかげんなものだ。法政大学出版のHPから概要、紀伊国屋のHPから目次抄を引用しておく。

上巻

 中学三年の夏休みに落語論を書いた――それから約半世紀、100冊超の本を世に送り出した平岡正明が、今度は自分の精子レベルにまで遡り、少年時代のトラウマをばっさり斬って、封印されていた落語の記憶を解き放つ。同時代のあらゆる文化を取り込む超絶イマジネーションが、落語世界をアクロバティックに拡張する、もっとも不純にして、もっとも真剣なる革命的落語論。
(目次抄)
落語、新内、冬の虎退治馬退治
斎藤緑雨の新内抹殺論
びろう樹の下の屁時計
「よかちょろ」のヒービー・ジービーズ
ガイズバーグ・レコーディングス
文弥vs文楽、「明烏」競演と「朝友」という落語
男爵音楽のタンゴ、ジャズ、落語でも「かんしゃく」
「夢の瀬川」と漱石夢十夜
ヨコハマで志ん生を聴くということは、「富久」
志ん朝も走る〔ほか〕

下巻

 江戸と江戸っ子の堕落を経て昭和の落語へ。進駐軍と三遊亭歌笑の死、フリー落語の誕生秘話など戦後闇市時代から現在までの記憶を一気に紡ぎ出す。さらに独自のアイデン精虫(チイチイ)理論によって、勝新太郎から桂文楽志ん生・馬生・志ん朝の名人親子まで、個々の芸人たちのアイデンティティーをも遺伝因子レベルまで掘り下げ、魂の深淵から湧き出づる大落語マンダラをダイナミックに描き出す。
(目次抄)
江戸がゆるむ、「てれすこ」と「長崎の赤飯」
「樟脳玉」のヴァルネラビリティ
「星野屋」と「庖丁」
「年枝の怪談」、汽車と畳の感覚
按摩の炬燵」、幻視者文楽の神髄
「麻のれん」
南天「口合あんま」
座頭市的落語
天狗裁き
さかさ邯鄲〔ほか〕

 座頭市より兵隊やくざ文楽志ん生よりは、助六今輔、馬生よりは三平、やっぱさぁ、「よしこさ〜ん、キッスさせてぇ〜♪」はすげかったよなぁ、広岡敬一の『戦後性風俗大系』のほうが腑に落ちるものがあるなぁと、意地を張ってみたくもなるが、なんかやっぱ(・∀・)イイ!!のである。困ったものだが、夢中で読んでしまう。こういうのを筆力というのだろうか。馬路すごいと思うよ。正直。最近公表しはじめた「間の社会学」からすべてを読み直してやるぞぉ〜、「アイデン精虫(チイチイ)理論」なんて実体志向クソ食らえだぁ〜、組み替えDNA理論でもなんでもやってやるぅ〜とか、凶暴な気持にならないところが、悪いところなんだろうかなぁ。あまり落語のうんちくを云々することに、意味は感じない。っつーか、オレなんかなんにも知らないし、素人でやっているから意味があるのかなぁとも思う。がだ、それでも言っておきたいことはある。やっぱこぶ平か、三平をつぐであろうところの弟かなんかに、余興でいいから「よしこさん、きっすさせてぇ〜♪」をやって欲しい気はする。吉本なんか、三郎四郎だけじゃなく、みんな横山やすしのまねするやんけ。でまあ、そういうようなことと、タッキーの義経における平幹二郎後白河法皇とかみていて、こういう人とかが落語やったらすげーだろうなと思ってしまったりすることと、関係あるかもしれないっていうことなども、アテずっぽな意味深ブリッコはなにより愚劣と言うことは、百万遍認めても、いちおうゆっておきたいきはしないこともないこともなかったりする。植草甚一広岡敬一を足してわったような平岡正明も、それをバナナのたたき売りのおっさんと言ったウチのバカ親も、まったくかなわん人たちだなぁ。脱帽。