修士論文審査について

 昨日行われた修士論文の審査と関連し、うちのゼミの執筆者についてのみ、一定書き記しておきたいと思います。題名は『摂食障害と自己発見――「ほどよく統合された自己」への過程』というものです。おまえにそんなものが指導できるのかと言われれば、なんともにんともです。過去にも、アディクションインドネシアのノンフォーマル教育、ミードの自我論などの院生がいました。ミード以外は、ハニャーンといえば、ハニャーンですよね。でもまあ、学部からのつながりもあるし、ショーがないじゃないかってことなんですね。で今年の人は、河村望ゼミでミードの自我論を学んでいて、卒論をこの問題で書き、何年か農林水産業方面の番組制作に関わり、大学院に来た人です。
 この人の論文の理論的な特徴は、「回復」に徹底的にこだわったということです。通常、自我論を今どきやる人たちは、自立、回復だとか言うことに対しては警戒感があるんじゃないかと思います。つまり、自立の原因だとか、病気の原因だとか、回復の原因だとかを論じなくてはならないことは、言うまでもない。折しも加藤まどか氏の摂食障害の本が出た。で、ゼミでも読んだ。規範の多重性という論点については、非常に萌えだったみたいだけど、ひつこく「自立」「回復」にこだわった。そういう意味で、浅野千恵氏の摂食障害の本のほうにむしろ共感するということを何度も強調していました。結局2つの研究を軸として、研究のレビューをしました。加藤まどか氏の著作に詳細なレビューがあり、それをなぞってもしょうがないということで、思い切って単純化して、「多重規範からの自立=回復」を探求するという勇ましいことになりました。
 ミード研究における主体論、客体論、折衷論の対立をこれに重ね、時間、社会関係のなかで変容する自己という見地から、「自立」の論理を構成しようとしていました。この辺の議論は、言うまでもなく本質主義構築主義なんかの議論と重なる点も多く、一修士論文で結論が出るものでもないし、また理論的な決着をつけることがこの論文の課題でもないし、と私がついついなあなあな態度をとってしまったことは、間違えだったのかと、ちょっと悩んでおります。煮え切らないし、自立とかゆうし、なんともにんともとか思っていたことも事実です。
 そして、私は一切コネもなにもないし、結局アディクションをやっていた元院生がわりあい医療関係などに顔が広いので、その人の紹介などもあり、とあるグループに参加し、また独自に医師に相談し、細々と聞き取りをはじめたようでした。そこではじめて、モチベーションを得て、8人の人から聞き取りをさせていただくことになりました。私は紹介状一本書いていません。ただ、切れば血が出る世界だから、安易な態度は慎むようにと、ある例をあげて説明しました。そしてまとめた視点が、「ほどよく統合された自己」であり、そのきっかけとなったことばが「秤の振れ幅」であることは、前にもブログで書いたとおりです。
 この人は、徹底的に聞き取りをさせて下さった人々のことばにこだわり、「秤の振れ幅」以外にも、いろいろなことばを用いて、「摂食障害の経験の変容」を分節し、具体化してゆきました。審査では、そのようなスタイルがあることを認めつつも、そこでとどまって、概念的なことばへの変換を行わないことで、「ほどよく統合」の内実が明らかになっていないのではないかということなどが、シビアに議論されました。できあいの社会学用語をそこにあてはめろという議論なら、耳を貸さないわけですが、ことばの論理を十分に展開できていないのではないかという指摘は、重んじないわけにはいかないと思いました。
 一見すると方法の対立、スタイルの対立のようですが、結局は時間が足りないだとかそういう問題に帰着するものであると、面接では思いました。また、良心的な無理解にどのように答えるかは、書き手の義務であるとも思いました。しかしまた、環境問題のサークルをしていた頃に思いをはせると、「研究ゴロ」「調査ゴロ」などの問題を真剣に考えたなぁなどとも思うわけです。しかし、そんなことを持ち出して、論文を弁護する気はやはり起きません。安易に情緒的であるところがどうしても目につきます。経済学の先生たちが、方法的野心を尊重しながらも、違和感を感じたのはそんな点なのではないかと思います。副査の1人のことばがなにより雄弁にそれを物語っています。「体言止めが多い」。
 今年もまたよい勉強をさせてもらいました。野心が空回りせず、次につながる着実な論文だったと思います。他大のかたは稚拙だと思われるかもしれませんが、私にはそれなりに満足できる成果です。そして、なにより指導者としての力量不足を反省したいと思います。