性教育国会問答をめぐって

 国会問答における性教育の教材問答を見て、ふたたびいろんなことを思い出して、頭を抱えてしまった。私は質問者とまったくちがう立場だ。「ふさわしくない」からやめろとは思わない。けれども、教科書に絡みの写真が載っていたり、人形使って教育やってて、その人形が妙にファミリーなかわいらしいものであったことには、ぶっ飛び、ちげーンじゃないのとか思ってしまったことを、正直に確認しておきたい。それはそんなことを教えるなっつーことではなく、なんか教科書に載っていること自体興ざめな気持ちになってしまうのである。前にも話したことだが、昔くそ真面目な先生が、地方なまりで「しゃーしが、卵子が」と脂汗流して、一生懸命説明し、クックックと笑いをこらえていて、怒鳴りつけられたことや、こーやってやるんだと両親がセメントファイトするのを見せられて魂が抜けたようになって学校に来た友達などを思い出す。
 なんでもかんでも親や学校にならうもんじゃないという固定観念をずっと持ってきた。
もちろん保健体育でカバーできる範囲はあるし、教えなきゃだめだと思う。ピリオドの処理とか特にそうだ。岡山大学で「性を考える」講義に関わっていたとき、性別論を話したお医者さんが両性具有の話をしてくださって、子どもができないんで医者に行ったら、妻が外見カチンコチン女性だけど、内部カチンコチン男性だったという話で、今までもーほーはなんだかんだとゆってた人たちが突然自分の問題になってしまったという話で、みんな考え込んでしまった。回答は教えてくれず、個別の事情も秘匿ということで、ずっと考えているけど、いまだにわからない。すくなくともピリオドのことをちゃんと教えなかったことに問題があると思う。ほかにも、どのようにどうやるとガキができるかとか、やりまくると病気になることがあるとか、どんな病気があるかとか、教えないといけないんだろうね。少なくとも今はそうだと思う。
 私らは、近所の歓楽街の人々から、風呂屋であることないことならった。必要もない知識も多わかったし、ウソも多かった。たとえば、マンガの『博多っ子純情』に同じことが出ていて腹抱えて笑ったネタがある。えっとね、明日「レーコー」=小指とするという若い戦士にベテランのあんちゃんたちが「お前マニアはむーどんこ、サオじゃなくきゃんたまにつけてするんだぜ。それが男ってもんだ」などというだよ。で、その若い椰子が次の日「気合いできゃんたまで逝ったよ。やっぱつうはそんなもんだよ。わかったか坊主」とかゆって、私に諭すの。不安げな私に、ベテランのお兄さんがこっそり、「坊主はあんな馬鹿になるなよ」とか言って、腹抱えて笑った。「男女」の人とか、ホモバーの兄さんの軍団とか、いろんな人が来ていて、幼少の女湯のころには、ストリッパーだとか、バーのねーちゃんとか、いろんな人に悪い男の愚痴とか聞かされたし。めちゃくちゃだと思っていたけど、根が真面目なもんで、そんな人の話で耳年増になれたことだけでも、幸いとすべきなのかもしれない。そのころから立ち読みが好きで、教わったことは本屋などできちんと調べて裏をとっていたし、けっこう勉強になった。
 それはいいが、中学で受験少年院を目指していた新興受験校でくそ真面目にすごしていて、18までは非常に観念的なことになり、素晴らしい?学ぶ機会を得たのにまったくダメな大人になってしまった。結局机上の空論にすぎなかったとも言えるだろう。体験自体もなんだかんだ言うほどのものではない。級友や近所のから似たりよったりの知識を得ることができたことは、みんな同じようなものだろう。私の青少年時代は、フリーセックスの時代だったが、性はさほど問題にもならなかった。リスク管理が必要なほどではなかったんだろうか。景気がよかっただけかもしれないけど。っつーか、まだ明治生まれもいて、経済成長を支えるだけの規律があった時代だっただけかもしれない。それでも、先輩でガキつくっちゃってトラックの運ちゃんになったのとか、同級生で駆け落ちしたりしたのとかいたよなぁ・・・。
 しかし学校で教えるのはすごい大変だと思う。専門家の研究成果、苦労の産物を「ふさわしくない」と倫理的に糾弾する前に、充分に研究討議をする必要があるだろう。真面目に教えなければいけないこともある。医学部などではよく同様のことはあるようだ。つまり、解剖で若い女性とかだと、悪戯する椰子とかいるらしい。先生に見つかったら、先生が馬路ぎれして、ぶん殴ッたという話がある。体罰だけど、みんな納得したと聞く。また、耳を切り取って壁に貼り「壁に耳あり」とおちゃらけていた奴が、退学になったという話も聞いた。北田理論じゃないが、はんちくなアイロニーは、容易に倫理的にナイーブになる可能性がある。なにかを求めているならばそうなんだろうと思う。だからパロディーはダメで、空っぽのパスティッシュこそ真実というわけでもないんだろうね。真実なんて言っているわけだし。呪怨のかやちゃんなみにひつこく再帰する言説がそこにはある。
 誤解を恐れず、正直言うけど、なんか教科書にオナニーの方法とか書いてあったら、スゲーひくと思うんだよね。ユーモアのオブラートにくるんでと言う人がいるかも知れないけど、ギャグってもさ寒いものは寒いわけだよね。オナニーはベースを弾くのといっしょ。「男性はスナップをきかせてチョッパー、女性はツーフィンガーで」とか書いてあったら、そーとー笑えないと思うよ。声に出す、百マスの延長上で、グラインドの「hin-her」体操っていうのも寒いよね。小木博明の「すかさずほもった」みたくコシをカクカクさせて、「ヒン=前 ヘア=後」と繰り返す。前にも言った小笠原流『結婚大全』における夫婦生活の章を教えるのもなぁ・・・。
 でまあ、なにが言いたいかと言えば、私のような素人が教科書や教材を見て「ビックリした」という水準でものを言うとこんなあほくさいことしかいえないということだ。もっと勉強して発言しないとダメだなぁと痛感する。id:using_pleasure さんのブログで討議されはじめたが、注目したい。同氏のカムアウト論などは、うわついたところがなく、共感できるものがあった。「勘違いの進歩派の言説」というレイブリングなどもあるかとは思うが、ひと味違うところを見せてもらいたいなあと思う。素人のトラバは迷惑かと思ったが、一応言及したし、まいみくしでもあるし、トラバ打たせてもらいました。

掃除をはじめる

 いろいろ仕事が山積で、掃除ができなかった、などというときれい事で、ごぞんじのひとはごぞんじかもしれないが、かたづけられないシンドロームであり、書類やなにやらが散乱している。そして、本が積み上げてある。何度かたづけてもこうなってしまう。年度末は掃除の季節である。学生バイトを雇い、掃除をしてもらう。けっこうハードワークなので、時給2000円くらい出す。もちろんポケットマネー。ッテイウカ、この時期公費は使えないんであるよ。
 この時期学生が大量に本を返しに来る。ついでに、在学中の本をおいてゆく人もいる。後輩がテキストにつかうかもしれないなどと、調子のいいことを言っているが、ブックオフにもってゆくのがめんどうなだけだろう。本を返す場合も、空いている棚に無造作に入れていくのとか、机の上に置いてゆくのもいる。なんか学問への愛がまったくないような気がして、非常に陰鬱な気分がするときがある。もちろんそういうことばかりではなく、卒論指導を受ける研究室にそれなりの帰属意識を持ち、相談が終わったら、五分ほどかたづけて帰るようなグループもいた。本のかたづけ方も違う。そういう人は、自分用の卒論をきちんと製本して保存していた。言うまでもなく、どっちがいいかの話ではない。過去をすっかり生産するのも、一つのオトシマエのつけかただし、なんかかっこいい。他方、うじうじなんでもとっておくのも、いいことだと思う。実は私は後者のタイプで、大学一年の時のテキストまでとってあるし、かつては抜刷や学会報告のレジュメなどもアルファベット順に整理してとってあった。今の書架は奥行きがなく、すべて縦置きのファイルボックスに整理し直すべきなのだが、重要なものをのぞいて散乱してしまっている。和田秀樹方式で、でかいダンボールにボコボコぶっこんでいる。この和田式整理法はとてもボクにあっているような気がするが、そのまんま堆積し、どーしようもなくなっている。
 卒論も増えてきた。最初の頃はすべて保存すると息巻いていたが、セルビングワンスパンの4割くらいにまでなってきた。今はネット時代だし、教員には電子提出させ、ファイル保存するようにしないといけないかなぁと思いだした。しかし、学生の閲覧ということからすると、ハードコピーが必要だ。合本して、雑誌のようにすることも考えている。